春秋左傳事類始末石、晋に言う(石言于晉)

晋の魏楡で石が人語を発し、師曠と叔向がこれを土木事業による民の怨嗟の兆しと論じて虒祁宮完成後の晋君の咎めを予言、後年裨竈が彗星から晋君の死を予言しそれが的中するまでを描く。

年表(2件)
  • 魯昭公八年前534年魏楡で石が人語を発し、師曠・叔向が虒祁宮造営による怨嗟の兆しと論ずる
  • 魯昭公十年前532年裨竈が彗星から晋君の死日を予言し、秋七月戊子に平公が薨去して的中

魯昭公八年(前534年)

  • 晋の魏楡で石が人語を発した。晋侯が楽師の師曠に理由を尋ねると、師曠は「石そのものが話すのではなく、何かが取り憑いたか、あるいは人々の噂に過ぎないのだろう」としつつも、「時節に合わない土木事業を起こせば民の怨嗟が動き、物言わぬはずの物さえ言葉を発することがある。今、宮室は驕り贅を尽くし民力は尽き果て怨嗟が至る所に起きている。石が語ったとしても不思議ではない」と答えた。ちょうどこの時、晋侯は虒祁宮の造営を進めていた。
  • 叔向は「師曠(子野)の言葉こそ君子の言というべきだ。君子の言は信があり証があるゆえ怨みを遠ざけるが、小人の言は僭越で根拠がないため怨みや咎を招く」と評し、『詩経』を引いて言葉巧みなだけの者は身を苦しめると述べ、この宮殿が完成すれば諸侯の離反と晋君自身への咎めが必ず起こるだろうと予言した。
  • 夏、魯の叔弓、鄭の游吉(鄭伯に随行)がそれぞれ晋を訪れ、虒祁宮の落成を祝賀した。鄭の史趙は子大叔に「これほど酷い有様なのに、弔うどころか祝賀するとは」と皮肉り、子大叔は「我々だけの祝賀では済まない、天下がこぞって『祝賀』することになるだろう」と応じた(実際には天下の非難を招くとの含み)。

魯昭公十年(前532年)

  • 正月、婺女の方角に彗星が現れた。鄭の裨竈は子産に「七月戊子の日に晋君が亡くなる。今年は歳星が顓頊の分野(玄枵)にあり、姜氏・任氏ゆかりの地にあたる。玄枵の首宿である婺女に妖星が出たのは、晋の始祖夫人・邑姜に関わる凶兆だ」と告げた。天は七を単位に紀すという理から、かつて戊子の日に没した斉の逢公の故事に准えて凶日を占ったという。
  • 果たして秋七月、季平子が莒を伐って郠を取った同じ戊子の日、晋の平公が薨去した。
  • 九月、魯の叔孫婼をはじめ斉・宋・衛・鄭など諸侯の大夫が晋に赴き、平公の葬儀に参列した。鄭の子皮は多くの供物(幣)を携えて赴こうとし、子産は「葬儀に大量の供物を用いれば随行の人数も膨れ上がり、国を疲弊させる」と諫めたが、子皮は聞かず出発した。
  • 葬儀の後、参列した諸侯の大夫たちは新君への謁見を望んだが、叔孫昭子は「喪の礼が終わっていないのに謁見を求めるのは非礼だ」と反対した。晋の叔向も、喪服のまま謁見するのも晴れの装いで謁見するのも共に礼に合わないとして、諸侯の求めを辞退させた。
  • 結局、子皮は用意した供物をすべて空費する結果となった。帰国後、子羽に「道理を知ること自体は難しくない、それを実行することこそ難しい。子産はそれができている」と語り、自らは書経にいう「欲は法度を破り、放縦は礼を破る」との言葉の通り、法度と礼を知りながら欲を抑えられなかったと反省した。