春秋左傳事類始末晋、虒祁の宮を成し諸侯貳心有り(十二年に係る)(晉成虒祁之宫諸侯有貳心)
虒祁宮完成後に諸侯が離反の心を抱いたことを機に、晋が大軍を催して平丘で会盟し、叔向の弁と威圧的な軍容で斉・魯を服従させ、子産が鄭の貢賦の不公平を訴えて認めさせ、魯の季孫如意を一時抑留した経緯。
年表(1件)
- 魯昭公十三年前529年晋が平丘で諸侯を会盟させ斉・魯を服従させ、子産が鄭の貢賦を是正させる
魯昭公十三年(前529年)
- 晋は虒祁宮を完成させたが、朝見に来た諸侯が帰国後にみな離反の心を抱いていた。魯が莒から郠を奪った一件もあり、晋は諸侯を討とうとした。叔向は「諸侯に威を示さねばならない」として諸国の軍を招集した。
- 七月丙寅、邾の南で四千乗の兵車をもって大規模な軍事演習を行い、平丘で諸侯を会盟に集めた。鄭では子産・子大叔が鄭伯を助けたが、子産が身分にふさわしい豪華な帷幕九張を用意したのに対し、子大叔は過分だと考え、宿泊のたびに数を減らしていった。
- 晋は同盟の再確認(尋盟)を求めたが斉が拒んだ。晋侯は叔向を周の劉献公のもとへ遣わし相談させると、劉献公は「盟は信を固めるもの。諸侯に信があれば同盟は不要のはずだが、まず言葉で説き、それでも従わねば武で示すべき」と答え、王室の兵をもって先導する構えを見せた。
- 叔向が斉に赴き道理を説き、政治の秩序(業・礼・威・明の連鎖)を欠けば国が傾くと論じ、天子への忠誠を欠けば見放されると警告した結果、斉はついに服従した。晋は軍を整然と、また威圧的にも見せる演習を繰り返し諸侯を畏怖させた。
- 邾・莒は魯が自分たちを攻めていると晋に訴えた。晋侯は魯公との対面を拒み、叔向を通じて拒絶の意を伝えたが、魯の子服恵伯は「夷狄の訴えを信じて兄弟の国である魯・周公の後裔を見捨てるのか」と反論した。叔向は晋の圧倒的な軍事力を誇示しつつも、魯側の道理に一定の理解を示し、結局甲戌の日に魯も同盟に加わり、斉も服従した。
- 会盟に際し子産は貢賦の順序(承)について争い、鄭は爵位が低い(男爵)にもかかわらず公侯並みの重い貢納を課されている不公平を訴えた。昼から夕方まで交渉した末、晋はこれを認めた。
- 会盟後、子太叔が「晋を挑発してよかったのか」と問うと、子産は「晋の政治は権力が分散し内紛の対応で手一杯であり、弱腰でいればかえって侮られるだけだ」と答えた。
- 魯は結局同盟には加われず、晋は季孫如意(季平子)を幕で覆って捕らえた。従者の司鐸射は錦を差し出しながら這って近づき食事を届け、番人もついに情にほだされて通した。晋は季平子を伴って帰国した。子服湫がこれに従った。
- 仲尼は子産のこの度の振る舞いを「国家の基礎を築くに足る」と評し、『詩経』の「楽しめる君子は邦家の基なり」を引いて子産を正しく楽しみを求める君子だとし、また貢納の格を諸侯の礼に適うよう定めたことも礼にかなうと述べた。
- 冬、季孫はなお晋にとどまっていた。子服恵伯は中行穆子(荀呉)に、魯は晋の兄弟国でありながら夷狄の小国以下の扱いを受けていると訴え、このままでは斉や楚に頼らざるを得なくなると示唆した。穆子はこれを韓宣子に伝え、楚が陳・蔡を滅ぼしても晋が救えなかった前例を挙げ、これ以上兄弟国の重臣を抑留すべきでないと説いた。
- 宣子は叔向に季孫を帰せるか尋ねたが、叔向は「自分にはできないが、子の叔魚ならできる」と答えた。叔魚は季孫のもとを訪れ、かつて自分が魯の武子の恩情で許された故事を語りつつ帰国の便宜を図り、暗に将来の便宜(西河に館を用意すること)を求めて涙を流して去った。季平子は先に帰国し、恵伯は正式な礼を待って残った。