春秋左傳事類始末穆叔、死して朽ちずと対える(穆叔對死而不朽)
穆叔が晋の范宣子に「死して朽ちず」の真意を説き、家名を保つ世禄と、徳・功・言を立てる不朽とを区別した。あわせて子産が范宣子に貢納軽減を諫めた一件と、鄭が陳を討って晋に正当性を説明した経緯を記す。魯襄公二十四年から二十六年にかけての鄭・晋の外交をめぐる話。
年表(3件)
- 魯襄公二十四年前549年穆叔が范宣子に不朽の真意を説き子産が貢納軽減を諫める
- 魯襄公二十五年前548年鄭が陳を討ち子産が晋に正当性を説明する
- 魯襄公二十六年前547年鄭伯が入陳の功に報い子産が礼をもって邑を辞退する
魯襄公二十四年(前549年)
- 穆叔が晋を訪れた際、范宣子から「死して朽ちず」とはどういうことかと問われた。宣子は自家の先祖が虞・夏・商・周を通じて世々禄を保ってきたことを誇ったが、穆叔はそれを「世禄」に過ぎず「不朽」ではないと退け、真の不朽とは徳を立てること・功を立てること・言を立てることの三つであり、家名を保つことだけでは不朽と言えないと説いた。
- 范宣子が政をとると諸侯への貢納の負担が重く、鄭の人々は苦しんだ。鄭伯が晋に朝見した際、子産が子西を通じて宣子に書簡を送り、「令名(善き評判)こそ国家の基盤であり、財貨を集めれば諸侯の心は離れる」と諫めた。宣子はこれを喜んで貢納を軽くした。この時の鄭伯の朝見は元々重い貢納への謝罪を兼ねており、あわせて陳を討つことを晋に願い出た。
魯襄公二十五年(前548年)
- 前年、陳侯が楚と結んで鄭を攻めた際に井戸を埋め木を伐って鄭を怨ませた。六月、鄭の子展・子産らが陳を攻めて陥落させ、民を害さず秩序立てて接収し、社を祓い、兵符・地籍の引き渡しを受けて撤収した。
- 子産は晋に戦果を報告し、陳を討った正当性(陳の裏切りと恩義への背き)、および侵略した規模が正当な範囲内であること(諸侯の領地の広狭の基準)、鄭が戎服で任に当たった由来(先祖が周王室に仕えた故事)を説明し、晋人を納得させた。
- 冬、子展が鄭伯に随行して晋に赴き陳での功を謝し、子西は再び陳を攻めて鄭と和睦させた。
史論(仲尼曰)
- 言葉には志を表す働き、文には言葉を伝える働きがあり、文飾のない言葉は遠くまで伝わらない。晋が覇者であり鄭が陳に勝てたのも、外交辞令の巧みさによるものだと評した。
魯襄公二十六年(前547年)
- 鄭伯が入陳の功に報いて子展・子産らに邑や礼服を賜った。子産は身分に応じた礼を理由に一部の邑を辞退し、最終的に三邑のみを受けた。公孫揮は「子産はやがて国政を執るだろう、譲って礼を失わない人物だ」と評した。