春秋左傳事類始末楚、舒鳩を滅ぼす(楚滅舒鳩)
楚が呉遠征に失敗した隙に舒鳩が呉に誘われて叛き、いったんは詰問で収めたが翌年ついに叛いたため楚の令尹子木が討伐し舒鳩を滅ぼした。呉の諸樊も報復に出て巣を攻めたが門前で射殺された。
年表(2件)
- 魯襄公二十四年前549年楚の水軍遠征失敗に乗じ舒鳩が呉に誘われ叛意を示す
- 魯襄公二十五年前548年楚が舒鳩を滅ぼし呉子諸樊が巣で射殺される
魯襄公二十四年(前549年)
- 楚子は水軍を率いて呉を攻めたが、軍中に賞罰の区別を定めなかったため功なく引き上げた。呉はこの楚の水軍の遠征に応じて舒鳩を誘い、舒鳩は楚に叛いた。楚子は荒浦に布陣し、沈尹壽と師祁犂に舒鳩を詰問させたが、舒鳩は叛意を否定し盟を求めた。楚王は討伐を望んだが、薳子は「叛いていないのに討つのは無実の者を討つことになる」と諫め、いったん兵を引いて民を休ませた。
魯襄公二十五年(前548年)
- 楚の薳子馮が没し、屈建が令尹となった。舒鳩がついに叛いたため、令尹子木がこれを討ち離城まで進んだ。呉が舒鳩を救援に来ると、子木は右軍を先に退かせ、子彊・息桓子・捷子・駢子盂が左軍を率いて呉軍と対峙しつつ退いた。呉軍が七日間その間にとどまると、子彊は「長く睨み合えば士気が落ちる、速やかに戦うべきだ」と述べ、私兵を囮に用いて呉軍を誘い出し、本隊で迎え撃つ策を進言した。策は成功し、呉軍は大敗、舒鳩は包囲されて八月に滅ぼされた。
- 十二月、呉子諸樊は水軍遠征への報復として楚を攻め、巣を攻囲した。巣の牛臣は「呉王は勇猛だが軽率だ、城門を開けば自ら攻めてくるので射殺できる」と進言し、その通り呉子諸樊は門前で射殺された。
- 楚子は舒鳩を滅ぼした功を子木に賞そうとしたが、子木は「これは先大夫蔿子の功である」と辞退し、その賞を蔿掩に与えた。