春秋左傳事類始末臧紇、不順を作し魯を去る(臧紇作不順去魯)

魯の季武子が嫡子を廃し悼子を立てるため臧紇に画策させたことが発端となり、孟孫家でも公鉏の策謀で庶子羯が嫡子秩を退けて立つ。臧紇は孟孫家の不興を買い、季孫にも攻められて邾へ出奔し、斉でも斉侯に警戒され容れられなかった。孔子はその知恵と恕を欠いた振る舞いを評した。

年表(1件)

魯襄公二十三年(前550年)

  • 魯の季武子には嫡子がなく、公彌が年長であったが、季武子は悼子を愛し、これを後継に立てようと臧紇に相談した。臧紇は「私に酒を飲ませてくれれば、あなたのために悼子を立てましょう」と言った。
  • 季氏が大夫を招いて酒宴を開き、臧紇が客となった。献酬の後、悼子を招いて座から降りて出迎えると、大夫たちも皆立ち上がり、宴の終わりには公鉏(庶子)も招いて悼子と同列に並ばせた。季孫(季武子)は顔色を失った。
  • 季氏は公鉏を馬正に任じたが、公鉏は不満で出仕しなかった。閔子馬がこれを見て「そのようにするな。禍福に決まった門はなく、ただ人が招くものだ。人の子たる者は不孝を憂うべきであり、地位のないことを憂うべきではない。父の命に常道などない。もし孝敬に努めれば、季氏に倍する富も得られよう。よこしまな行いをすれば、民に倍する禍も招く」と諭した。
  • 公鉏はこれに従い、朝夕慎んで職務にあたった。季孫はこれを喜び、酒を振る舞い、財産をすべて彼に譲った。公鉏氏は富み栄え、さらに公の左宰となった。
  • 一方、孟孫(孟荘子)は臧孫(臧紇)を嫌い、季孫は彼を愛していた。孟氏の御者・豊點は羯(孟孫の庶子)を気に入り、「私の言うことを聞けば必ず孟孫にしてやる」と持ちかけ、羯はこれに従った。
  • 孟荘子が病に伏すと、豊點は公鉏に「もし羯を立てれば、臧氏に仕返しできる」と持ちかけた。公鉏は季孫に「秩(嫡子)が継ぐのは当然だが、もし羯が立てば季氏は臧氏に対して大きな発言力を持てる」と述べたが、季孫は答えなかった。
  • 己卯の日、孟孫が没すると、公鉏は羯を戸口に立てて跡継ぎとした。季孫が弔問に訪れ、哭礼の後「秩はどこにいるのか」と問うと、公鉏は「羯がここにおります」と答えた。季孫が「秩が年長ではないか」と言うと、公鉏は「年長かどうかは関係ない、才があるかどうかだ。それに先君(孟荘子)の命でもある」と答え、そのまま羯を立てた。秩は邾へ出奔した。
  • 臧孫(臧紇)は弔問に入って激しく哀哭した。御者が「孟孫はあなたを憎んでいたのに、なぜそれほど哀しむのか」と問うと、臧孫は「季孫の私への愛は病のようなもの、孟孫の私への憎しみは薬石のようなものだ。良い病は悪い薬に及ばない。薬は身を生かすが、病の甘美さはその毒をいっそう増す。孟孫が死んで、私も滅びる日は遠くない」と答えた。
  • 孟氏は門を閉ざし、季孫に「臧氏が乱を起こそうとしており、孟孫の葬儀を妨げようとしている」と告げたが、季孫は信じなかった。臧孫はこれを聞いて警戒した。
  • 冬十月、孟氏が墓地の周辺を整地しようとし、臧氏の邑にまで除地作業を及ぼした。臧孫は正夫(役人)を遣ってこれを手伝わせたが、甲兵を伴わせて様子を見守らせた(孟氏を恐れたため)。孟氏は再び季孫に告げ、季孫は怒って臧氏を攻めるよう命じた。
  • 臧紇は鹿門の関を斬り破って邾へ出奔した。
  • かつて臧宣叔は鑄の女性を娶り、賈と為(子)をもうけた後に没し、後妻には穆姜(魯君の母)の姪を迎えた。この後妻の子が紇であり、紇は公宮で育てられ穆姜に愛されたため、跡継ぎに立てられていた。臧賈・臧為は鑄に留まっていた。
  • 臧武仲(紇)は邾から使者を送り、臧賈に大蔡(占いに用いる大亀)を届けさせ、「私(紇)は不才で宗廟の祭祀を守れなかった。私の罪が祭祀の断絶にまで及ばないことを願い、あなたにこの大蔡を差し出して跡継ぎを願う」と告げた。
  • 賈は為に大蔡を持たせて願い出させたが、実際には為自身が跡を継ぐことになった。臧孫は防の邑から使者を送り、「私(紇)に害を加える力があるわけではなく、ただ知恵が足りなかっただけだ。私事の願いではなく、ただ先祖の祭祀が守られ、文仲・宣叔の二代の功績が絶えないことだけを願う」と告げ、邑を返上した。こうして臧為が立てられ、臧紇は防の邑を(魯に)返上して斉へ出奔した。
  • 邾の人々が「我々と盟を結ぶのか」と問うと、臧孫は「拒む理由はない」と答え、盟約が結ばれることになった。
  • 季孫は外史(記録官)を召し、盟約の文言の先例(載書の冒頭の句)を尋ねた。外史は「東門氏との盟約では『東門氏の如くなるなかれ』とし、君命に従わず庶子を立てて嫡子を廃した罪を戒めました。叔孫氏との盟約では『叔孫僑如の如くなるなかれ』とし、国の常法を廃し公室を覆そうとした罪を戒めました」と答えた。
  • 季孫は「臧孫の罪はそこまでではない」と言ったが、孟椒が「関を斬り破った罪を挙げてはどうか」と提案し、季孫はこれを採用して「臧孫紇の如くなるなかれ、国の紀綱を犯し関門を斬った」という盟約の文言とした。
  • 臧孫はこれを聞き、「国に人物がいる、誰であろうか、おそらく孟椒(子服恵伯)であろう」と評した。
  • 斉侯が臧紇に領地を与えようとした。臧孫はこれを聞いて斉侯に会い、晋を討つことについて話をした際、「(斉の兵力は)多いことは多いが、あなたはまるで鼠のようだ。鼠は昼は隠れ夜に動き、寝室や廟には穴を掘らない。それは人を恐れるからだ。今、あなたは晋の内乱を聞いてから動こうとしている、それは鼠でなくて何であろうか」と述べたため、結局領地は与えられなかった。
  • 孔子はこれを評し、「知恵を働かせることの難しさを示す例だ。臧武仲ほどの知恵を持ちながら魯に容れられなかったのには理由がある。道理に反することを行い、恕(思いやり)を欠いた振る舞いをしたからだ」とし、『書経』夏書の「これを念い、これを順う」の句を引いて、事に従い恕をもって施すことの大切さを説いた。