春秋左傳事類始末晋、鄭を召して朝せしむ(晉召鄭朝)

晋が鄭に朝見を求めた際、鄭の子産(公孫僑)が応対し、悼公九年の即位以来、鄭が晋に尽くしてきた経緯を詳しく述べて誠意を訴えた一件。

年表(1件)

魯襄公二十二年(前551年)

  • 晋が鄭に朝見を求めた。鄭の少正・公孫僑(子産)が応対し、鄭がこれまで晋に尽くしてきた経緯を詳しく述べた。
  • 晋の先君悼公九年、鄭の寡君(簡公)が即位し、その八か月後、先大夫子駟が寡君に従って晋に朝見したが礼遇されず、寡君は不安を覚えた。
  • その二年後の六月、鄭は楚に朝見し、これにより晋との間で戯の役(戦い)が起きた。楚人は依然として勢いを競い、鄭に礼を尽くすよう迫ったが、鄭は「晋に不敬と見なされることを恐れ、楚に二心を持つことはできない」と応じた。
  • 四年後の三月には先大夫子蟜が寡君に従って楚の隙をうかがい、これにより晋は蕭魚の役を起こした。鄭は「わが邑は晋に近く、草木にたとえれば同じ匂いを持つ間柄であり、どうして違えることがあろうか」と述べ、楚もまた勢いを失ったため、寡君は財宝や宗廟の祭器を尽くして晋との盟約を受け、諸臣を率いて晋に従い年末の会合にも出席した。
  • それでも楚に二心を持った者(子侯・石盂)がおり、溴梁の会の翌年に討伐した。
  • 子蟜が老齢となった後は公孫夏が寡君に従って朝見し、嘗酎の祭に立ち会って膰肉を受けた。二年後、晋君が東方(東夏)を平定しようとしていると聞き(襄公二十年の澶淵の会を指す)、四月にはまた朝見して命令を聞いた。
  • 朝見の間隔が一年でなくとも、毎年必ず聘問を行い、いかなる労役にも従い、大国の政令には常に従ってきた。国家は疲弊し、不測の事態が絶えず、日々恐れながら職務を怠ったことはない。
  • 大国がもし鄭を安んじてくれるなら、いつでも朝廷に伺候する用意がある。もし患難を顧みず、鄭を口実に切り捨て仇敵とするならば、それは鄭の恐れるところであり、あえて君命を忘れるものではない。この件は執事の深い考慮に委ねる、と結んだ。