春秋左傳事類始末陳、二慶を殺す(陳殺二慶)

陳の慶虎・慶寅が公子黄を讒言して楚へ追放させ国政を専断したが、公子黄は楚を頼んで訴え出て、陳が楚に叛くも城の労役の民が二慶を殺す事態に至った。魯襄公二十年から二十四年にかけての陳の内紛と、蔡の公子燮誅殺の顛末も併せて記す。

年表(3件)

魯襄公二十年(前553年)

  • 蔡の公子燮は蔡を晋に従わせようとしたため、蔡の人々に殺された。
  • 陳の慶虎・慶寅は公子黄の勢いに脅威を感じ、楚に「公子黄は司馬(公子招)と共謀している」と讒言した。楚人はこれを理由に公子黄を討ち、黄は楚へ出奔した。
  • かつて蔡の文侯は晋に仕えようとし、「先君は践土の盟に参加した。晋を捨てるべきでなく、兄弟の国でもある」と述べたが、楚を恐れて実行できないまま没した。楚人は蔡に定まった方針を持たせず、公子燮は先君の志を継いで蔡の利益を図ろうとしたが果たせずに死んだ。『春秋』が「蔡人その大夫公子燮を殺す」と記すのは、燮が民意と一致しなかったことを示す。
  • 公子黄は出奔する際、国に向かって「慶氏は無道にも陳国を専断しようとし、その君主を軽んじ親族を排斥している。五年のうちに滅びなければ、それは天の道理がないということだ」と呼びかけた。

魯襄公二十三年(前550年)

  • 陳侯が楚へ赴いた際、公子黄が二慶(慶虎・慶寅)を楚に訴えた。楚人は二人を呼び出し、慶楽を遣って殺そうとした。
  • 慶氏はこれに対し陳を挙げて楚に叛いた。屈建は陳侯に従って陳を包囲し、城の労役に就いていた人々が互いに命じ合ってそれぞれの長を殺し、ついに慶虎・慶寅を殺した。楚人は公子黄を陳に迎え入れた。
  • 君子はこれを評し、慶氏の不義は許されるものではないとし、『春秋』が「命に定まりなし」と記すのはそのためだとした。

魯襄公二十四年(前549年)

  • 陳の人々は改めて慶氏の一党を討伐し、鍼宜咎は楚へ出奔した。