春秋左傳事類始末晋侯、緜上に蒐す(晉侯蒐于緜上)

荀罃・士魴の没後、晋侯が緜上で閲兵し軍制を改める際、士匄・韓起らが互いに上位を譲り合ったことで晋国が和し諸侯も睦じくなったとされ、君子が謙譲こそ礼の要であると評した逸話。

年表(1件)

魯襄公十三年(前560年)

  • 荀罃・士魴が没した。晋侯は緜上で閲兵し軍制を改めた。士匄に中軍将を命じたが、士匄は「荀偃(伯游)が年長で、私はかつて知伯の副将として仕えたに過ぎず賢いわけではない」と辞退し、荀偃に譲った。荀偃が中軍将、士匄が副将となった。
  • 韓起に上軍将を命じたが趙武に譲り、欒黶も「自分は韓起に及ばない」と辞退したため、趙武が上軍将、韓起が副将、欒黶が下軍将、魏絳が副将となった。
  • 新軍には将を置かず、その属官・兵卒・下士官を下軍に付属させた。これは礼にかなう措置であった。晋国の民はこれにより大いに和し、諸侯も睦じくなった。
  • 君子は「謙譲こそ礼の要である。范宣子(士匄)が上位を譲ったことで下の者も皆譲り合い、欒黶のような驕った者もあえて逆らわなかった。晋国が数世にわたり安定したのはこの善行によるところが大きい。一人の善行が万民に及ぶという『書経』の言葉、周が興った際の『儀刑文王、万邦作孚』(文王に倣えば万国が信を置く)の詩、逆に周が衰えた際の『大夫不均、我從事獨賢』(大夫の分担が不公平で自分ばかり働かされる)という詩は、それぞれ譲り合いの有無を表している。治世では君子は能ある者を尊び下に譲り、小人は力を尽くして上に仕えるので上下に礼があり讒言も遠ざかる。これを懿徳と呼ぶ。乱世では君子が功を誇って小人を見下し、小人は技を誇って君子を凌ごうとするため上下に礼がなく乱れと暴虐が並び起こる。これを昏徳と呼ぶ。国家の衰亡は常にここに由来する」と評した。