春秋左傳事類始末晋、趙氏を滅ぼす(晉滅趙氏)

趙嬰が趙荘姫と密通して兄たちに追放され、その恨みから荘姫が趙同・趙括を謀反と讒言し晉は趙氏を討つ。趙武は韓厥の進言で家名を継ぎ、後に晉景公は趙氏の怨霊に苦しめられ、名医緩に「病膏肓に入る」と診断されたのち崩御した。

年表(4件)

魯成公四年(前587年)

  • 晋の趙嬰(趙盾の弟)が、趙盾の子・趙朔の妻である趙荘姫と密通した。

魯成公五年(前586年)

  • 春、趙嬰の兄である原(趙同)・屏(趙括)は趙嬰を斉へ追放した。趙嬰は「私がいたからこそ欒氏も事を起こさずにいたのだ。私を追放すれば兄二人が心配な目に遭うだろう。それに人には得手不得手がある。私を放っておいても何の害もない」と訴えたが聞き入れられなかった。
  • 趙嬰は夢で天の使いから「私を祀れば福を与えよう」と告げられ、士貞伯に占わせたが、貞伯は「分からない」と答えつつ、人には「神は仁ある者に福を与え淫らな者に禍を与える。淫らでも罰を受けないのは福があるからだ。祭ったところで免れられようか」と語った。案の定、趙嬰は祭りの翌日に亡命の身となった。

魯成公八年(前583年)

  • 趙荘姫は趙嬰の追放を恨み、晋侯に「原(趙同)・屏(趙括)が謀反を企てている」と讒言し、欒氏・卻氏がこれを裏付けた。六月、晋は趙同・趙括を討伐した。趙武(趙朔の子)は母の姫氏(荘姫)に従い公宮に匿われて難を逃れた。
  • 趙同・趙括の田は韓厥の進言により祁奚に与えられていたが、韓厥は晋侯に「成季(趙衰)の勲功と宣孟(趙盾)の忠義がありながら子孫が絶えれば、善行を積む者は皆恐れをなすだろう。三代の名君が数百年天命を保てたのも、先賢の徳に頼って過ちを免れたからだ。『周書』にも『やもめや独り者を侮ってはならない、それが徳を明らかにすることだ』とある」と説き、趙武を趙氏の後継に立て、没収した田も返された。

魯成公十年(前581年)

  • 晋侯は夢で、髪を振り乱し地面に届くほどの大厲(怨霊)が胸を叩いて踊りながら「わが子孫(趙氏一族)を殺したのは不義だ。天帝に訴えて許しを得た」と叫び、大門・寝室の戸を破って迫ってくる夢を見た。恐れた晋侯が室の奥に逃げ込んでもなお戸を破って迫り、そこで目が覚めた。
  • 桑田の巫に占わせると、夢と同じことを言い、「新穀を口にする前に亡くなるでしょう」と告げた。晋侯は病に倒れ、秦に名医を求めた。秦伯は医緩を遣わしたが、到着前に晋侯は夢を見た。夢の中で病魔が二人の子供の姿になり、「あの者は名医だ、我々を傷つけるのではないか。どこに逃げよう」「肓の上、膏の下に隠れれば手出しできまい」と語り合っていた。
  • 医緩が到着し診察して「この病は治せません。病巣は肓の上、膏の下にあり、灸も届かず針も及ばず、薬も効きません」と告げた。晋侯は「まさに名医だ」と言って厚く礼をして帰した。
  • 六月丙午、晋侯は新麦を食べようとし、役人に麦を献上させた。料理人がこれを調理する前に、晋侯は桑田の巫を呼び出し、予言が外れたとして殺させた。しかしまさに食べようとしたところで厠へ立ち、そこで倒れて亡くなった。
  • ある小臣が朝方、晋侯を背負って天へ登る夢を見ていたが、真昼になって現実にその小臣が晋侯の遺体を厠から運び出すことになり、結局その小臣は殉死させられた。