春秋左傳事類始末賈季、陽処父を殺す(賈季殺陽處父)
晋で陽処父が閲兵をやり直させて中軍将を趙盾に代えたことを賈季が恨み、続鞫居に命じて陽処父を殺させた事件。晋は続鞫居を誅し賈季は狄へ亡命、㬰駢は私怨で報復しようとした従者を止め賈季の妻子を丁重に送り届けた。
年表(2件)
- 文公五年(前622年)寗嬴が陽処父の剛に過ぎる性質を見抜き途中で従うのをやめた
- 文公六年(前621年)陽処父が中軍将を趙盾に代え、賈季がこれを恨み陽処父を殺させた
文公五年(前622年)
- 晋の陽処父が衛に聘問した帰途、温を過ぎて寗の地に立ち寄った。大夫寗嬴はしばらく陽処父に付き従ったが、温まで来て引き返した。
- 妻がその理由を尋ねると、寗嬴は「陽子(処父)は剛に過ぎる。商書に『沈潜は剛克、高明は柔克』とあるように、陽子はもっぱら剛に偏っており、天の剛徳でさえ時に逆らわないのに人がそれに逆らってよいはずがない。華やかで実がなければ怨みを集める。人に逆らって怨みを集めては身を安んじられない。彼に累が及ぶ前に去るのだ」と答えた。
文公六年(前621年)
- 晋は夷の地で閲兵を行い、狐射姑(賈季)を中軍将、趙盾を佐とした。ところが陽処父が到着すると董で閲兵をやり直させ、中軍を趙盾に代えた。陽処父はもと成季(趙衰)の一族に連なり趙氏に近かったため、趙盾が有能であることを理由に立場を入れ替えたのである。
- 趙盾(宣子)はこうして国政を執り始め、法度・刑罰・訴訟を整備し、逃亡者の取り締まりを厳格にし、旧来の悪弊を正し、身分に応じた礼を定め、常務の制度を整えるなど改革を進めた。これらを大傅陽処父・太師賈佗に授けて晋国全体に施行させ、常法とした。
- 秋、賈季は陽処父が自分の班次を入れ替えたことを恨み、また陽処父が晋で後ろ盾を持たないことを見て、続鞫居に命じて陽処父を殺させた。晋は続簡伯(続鞫居)を誅殺し、賈季は狄へ亡命した。
- 趙盾は㬰駢に命じて賈季の妻子を送らせたが、夷の閲兵の際に賈季は㬰駢を辱めたことがあり、㬰駢の従者たちは賈氏を皆殺しにして報復しようとした。
- 㬰駢はこれを止め、「昔からの言い伝えに『恩讐は子孫に及ぼさない』とあり、それが忠の道である。趙盾殿は賈季に礼を尽くされたのに、私が自分への恩寵を理由に私怨を晴らすのはよくない。人の寵愛を笠に着るのは勇ではなく、怨みを増やして仇を作るのは知ではなく、私情で公事を害するのは忠ではない。この三つを犯してどうして趙盾殿にお仕えできようか」と述べ、賈氏の妻子・財産をすべて整えて自ら護衛し、国境まで送り届けた。