春秋左傳事類始末鄭、申侯を殺す(鄭殺申侯)

斉の楚討伐に際し陳の轅濤塗と鄭の申侯の駆け引きに始まり、申侯が讒言により誅殺され、鄭の太子華の陰謀を管仲が退け、さらに周室の恵王崩御・王子帯の乱・襄王の狄からの受難とその晋による救出までを描く。僖公四年から二十五年(前656〜前635年)の22年間。

年表(14件)

僖公四年(前656年)

  • 斉の桓公が諸侯の軍を率いて楚を伐った。陳の轅濤塗は鄭の申侯に、軍が陳・鄭の間を通れば両国が疲弊するので、東方から夷を威圧しつつ海沿いに帰るべきだと持ちかけた。申侯は一旦賛成したが、桓公にはこれを告げず、逆に陳・鄭経由で兵糧を供出する案を進言した。桓公はこれを喜び、申侯に虎牢の地を与える一方、濤塗を捕らえた。秋、斉は不忠を責めて陳を伐った。

僖公五年(前655年)

  • 陳の轅宣仲は、召陵の会で申侯が自分を裏切ったことを恨み、申侯に賜邑の城を築かせて「美」と名付けさせ、諸侯に働きかけて築城を実現させた。その後、宣仲は一転して「美の築城は謀反の準備だ」と鄭伯に讒言し、申侯は罪に問われることになった。
  • 首止の会では、王の太子鄭(のちの襄王)を安定させ周室を安んじることが謀られた。秋、諸侯が盟約した際、王は周公を遣わして鄭伯に、楚に対しては懐柔策を、晋に対しては後ろ盾を頼むよう伝えたが、鄭伯は斉への不参内を恐れて盟に加わらず逃げ帰った。孔叔は「軽々しく背けば親しみを失い、後で盟を乞う羽目になり損失が大きい」と諫めたが聞き入れられなかった。

僖公七年(前653年)

  • 申侯の出自と最期。申侯は申国の出で、かつて楚の文王に寵愛された。文王は死に際し、申侯の欲深さを見抜いて璧を与え、「小国には身を寄せるな、早く立ち去れ」と忠告した。文王の死後、申侯は鄭に出奔し、厲公にも寵愛された。のちに申侯が誅殺されたと聞いた楚の子文は、「主君ほど臣下を知る者はいない、とはよく言ったものだ」と評した。

鄭殺大子華・周子帶の乱

  • 斉の人が鄭を伐った。孔叔は鄭伯に、強くも弱くもなれずこのままでは滅びると説き、斉に降ることを勧めたが、鄭伯は躊躇した。結局、鄭は申侯を殺して斉に詫び、秋に甯母で盟約が結ばれた。
  • 鄭伯は太子華を会に遣わし、斉侯に鄭国内の洩氏・孔氏・子人氏の三族を除けば鄭を斉の内臣とすると持ちかけた。斉の管仲は、礼と信で諸侯を統べる立場でこのような姦計に乗るべきでないと諫め、桓公を説得してこれを退けた。管仲は、太子華が大国を頼んで自国を弱めようとするのは自滅の道であり、鄭にはなお賢臣が三人いるので付け入る隙はないと見抜いていた。これにより太子華は鄭で罪を得た。

僖公八年(前652年)

  • 洮での盟に、鄭伯は服従を乞うて参加した。

僖公十六年(前644年)

  • 鄭は太子華を誅殺した。

僖公五年(前655年、周王室安定の会)

  • 首止の会は、王の太子鄭を助けて周を安んじるためのものであった。

僖公七年(前653年、恵王崩御)

  • 閏月、周の恵王が崩じた。襄王は叔帯の争いを恐れ、即位が定まらないうちは喪を発せず、まず斉にその難を告げた。

僖公八年(前652年、王室のための会)

  • 春、洮での盟は王室のことを謀るものであった。襄王の位が定まってから、ようやく恵王の喪が発せられた。

僖公十一年(前649年)

  • 夏、揚拒・泉皐・伊雒の戎が王子帯の呼びかけに応じて京師を攻めた。秦・晋はこれを撃退して周を救った。

僖公十二年(前648年)

  • 王は戎の乱を理由に王子帯を討ち、秋に王子帯は斉へ出奔した。冬、斉侯は管仲を遣わして王のために戎と和睦させ、隰朋を遣わして晋のために戎と和睦させた。王は上卿の礼で管仲をもてなそうとしたが、管仲は自らの身分をわきまえて辞退し、下卿の礼を受けた。君子はこれを「先例を忘れぬ譲り」と称えた。

僖公十三年(前647年)

  • 春、斉侯は仲孫湫を周に遣わし王子帯のことを述べさせたが、湫は王と話し合わないまま帰り、「まだ機は熟していない、十年は待たねばならぬ」と復命した。
  • 夏、咸での会は王室のことを謀るもので、戎の脅威に備え諸侯が周を守った。

僖公二十二年(前638年)

  • 富辰は王に、兄弟の不和を憂える詩を引いて叔帯を呼び戻すよう進言した。王は喜び、王子帯は斉から京師に呼び戻された。

僖公二十四年(前636年)

  • 甘昭公(王子帯)は隗氏(狄の女)と密通し、王は隗氏を廃した。頽叔・桃子は叔帯を奉じて狄の軍で王を攻めた。王の側近は防戦しようとしたが、王は「先王への申し開きができない」として抵抗せず、坎欿まで逃れたところを国人に迎えられた。秋、狄は周軍を大敗させ、王は鄭に出て汜に留まった。叔帯は隗氏と温に住んだ。王は晋・秦に難を告げ、鄭伯は孔将鉏らに命じて王の身辺を整えさせた後、私的な政務にあたらせた。

僖公二十五年(前635年)

  • 秦伯が黄河のほとりに軍を進め王を迎え入れようとした。晋の狐偃は文公に、諸侯の信を得るには王を助けるのが一番だと勧めた。占いは「黄帝が阪泉で戦った」吉兆と出たが、文公は自らに畏れ多いとためらった。改めて筮すると「大有が睽に之く」卦で吉、天子に応える形の卦だと判じられた。
  • 晋侯は秦軍を退けて自ら王を迎えることとし、右軍で温を囲み、左軍で王を迎えた。四月、王は王城に入り、叔帯は温で捕らえられ隰城で殺された。晋侯は王に朝見し、王から酒宴と褒賞を受けたが、王の葬礼に用いる隧道の使用は「二人の王があるようなものだ」として許されなかった。代わりに陽樊・温・原・攅茅の地を与えられ、晋はこれにより南陽に進出した。陽樊は服さず包囲されたが、住民は「徳で中国を懐柔し刑で四夷を威圧すべきなのに」と抗議し、晋侯はその民を解放した。
  • 冬、晋侯は原を包囲し三日分の兵糧で攻めたが原は降らず、いったん撤退を命じた。間者は「原はまもなく降る」と報告したが、晋侯は「信は国の宝、民の拠り所だ。原を得ても信を失えばもっと大きなものを失う」として一舎退いた。すると原は降伏した。晋侯は原の守将に勃鞮のことを問い、勃鞮は「かつて趙衰は壺の飯を携えながら飢えても食べなかった」と答え、趙衰が原の守に任じられた。