春秋左傳事類始末斉、衛を楚丘に封じる(齊封衞楚丘)

狄に敗れ大打撃を受けた衞が齊の援助で戴公・文公を立て曹に仮住まいし、その後夷儀の邢とともに楚丘に封じられ再興するまでの経緯。閔公二年から僖公二年(前660〜前658年)。

年表(3件)

閔公二年(前660年)

  • 冬、狄人が衞を攻めた。衞の懿公は鶴を愛し、車に乗せるほど寵愛していたため、開戦にあたり甲を受けた国人は「鶴に禄位があるのだから鶴を戦わせればよい、我らに何ができようか」と反発した。懿公は石祁子に玦を、寗荘子に矢を与えて国を託し、夫人には繍衣を与えて「この二人の指示に従うように」と伝えた。
  • 熒澤で狄と戦い、衞軍は大敗した。狄は史官の華龍滑と礼孔を捕らえたが、二人は「我らは太史であり祭祀を司る、先に行かせねば(狄への降伏の儀礼が)成らない」(狄は鬼神を畏れるため、まず神に告げると偽った)と言って先に行かせてもらい、そのまま国人と共に脱出、狄はさらに追って河のほとりで衞軍を再度破った。
  • 以前、恵公が幼くして即位した際、齊人は昭伯(公子頑)を宣姜と通じさせ、齊子・戴公・文公・宋の桓夫人・許の穆夫人が生まれた。文公は衞の多難を見越して先に齊へ移っていた。衞が敗れると、宋の桓公が黄河のほとりで衞の遺民を出迎え、夜のうちに渡らせた。衞の遺民は男女あわせて七百三十人、共・滕の民を加えて五千人となり、戴公を立てて曹に仮住まいさせた。齊侯は公子無虧に兵車三百乗・甲士三千人をつけて曹の守備にあたらせ、あわせて乗馬・祭服・牛羊豕鶏犬各三百と建材を、夫人には魚軒(婦人用の車)と重錦三十両を贈った。

僖公元年(前659年)

  • 齊桓公は邢を夷儀に遷した。

僖公二年(前658年)

  • 齊は衞を楚丘に封じた。邢の遷りは帰郷のように喜ばれ、衞は亡国の憂いを忘れるほどだった。衞の文公は粗末な衣冠をまとい、農業に努め、商業を通じ、工人を優遇し、教育を奨励し人材を登用した。即位当初は兵車三十乗に過ぎなかったが、晩年には三百乗にまで増えた。

(篇末に次章の見出しとして「僖公」の文字がある)