春秋左傳事類始末楚の鬻拳、自殺する(鬻拳自殺)

楚の武王が権を征服し治めさせたが、閻敖の処刑を機に一族の反乱と巴人の攻撃を招き、楚子は津で大敗し病死する。門番の長・鬻拳は楚子を城に入れなかった罪を悔いて自殺した。莊公十八・十九年(前676〜前675年)。

年表(2件)

莊公十八年(前676年)

  • 楚の武王は権を征服し、権の民を那処に移して閻敖に治めさせた。文王の即位後、巴人と共に申を討った際に自軍が乱れ、巴人は楚に叛いて那処を攻め奪った。閻敖は川を泳いで逃れたが、楚子はこれを処刑。閻敖の一族が反乱を起こし、巴人がこれに乗じて楚を攻めた。

莊公十九年(前675年)

  • 楚子はこれを迎え撃ったが津で大敗し、引き上げた。楚の門番の長・鬻拳は敗軍の楚子を城に入れず、楚子はやむなく黄を討って引き上げる途中、湫で病死した。鬻拳は主君を城内に入れなかった罪を悔い、王を葬った後に自殺し、経皇の地(本来の墓域の前)に葬られた。
  • 以前、鬻拳は楚子に強く諫言したが聞き入れられず、ついに武器を突きつけてまで諫めたところ楚子は恐れて従った。鬻拳は「私は武器で君を脅した、これ以上の罪はない」と自ら足を切る刑に処した。楚人はこれを重んじて彼を「大閽(門衛の長)」と呼び、大伯と称して子孫に世襲させた。

史論(君子曰)

  • 鬻拳は主君を愛したと言える。諫言のために自ら刑を受け、刑を受けてもなお主君を善へ導こうとした。