春秋左傳事類始末五大夫、子頽を立てる(五大夫立子頽)

恵王に所領を奪われた五大夫が蘇氏と結んで反乱を起こし子頽を王に立てたが、鄭伯・虢公が王城を攻めて子頽らを殺し、恵王を復位させるまでの経緯。莊公十九年から二十一年(前675〜前673年)。

年表(3件)

莊公十九年(前675年)

  • かつて王姚が荘王に寵愛され子頽を生み、子頽も寵愛を受け、蒍国がその教育係となった。恵王が即位すると、蒍国の圃・辺伯の宮を王宮に近いという理由で取り上げ、王子禽・祝跪の田も奪い、詹父の膳夫の職も剥奪した。これに恨みを持った蒍国・辺伯・石速・詹父・子禽祝跪の五大夫が蘇氏と結んで反乱を起こし、秋、子頽を擁して王を攻めた(かつて桓王が蘇氏の十二邑を奪って鄭に与えたことから両者の不和が続いていたことも背景にある)。冬、子頽が王に立てられた。

莊公二十年(前674年)

  • 鄭伯が王室の調停を試みたが失敗し、王を伴って帰り、王は櫟に留まった。王子頽は五大夫をもてなし、楽舞を存分に演じさせた。鄭伯がこれを聞き虢叔に「哀楽の時を失えば必ず災いが来る、子頽は倦まず歌舞に興じている、これは禍を楽しむこと。司寇が処刑を行えば君主は音楽を控えるものだ、まして王位を奪った者が楽しむとは。禍を目前にして憂いを忘れれば必ず禍が及ぶ、王を復位させよう」と持ちかけ、虢公も同意した。

莊公二十一年(前673年)

  • 両者は共に王城を攻め、鄭伯は王を伴い圉門から、虢叔は北門から入り、王子頽と五大夫を殺害した。鄭伯は闕の西側で王をもてなし、音楽を存分に整えた。王は鄭伯に武公の旧領(虎牢以東)を与えた。原伯は「鄭伯はこれをまねる者が出て、いずれ咎めを受けるだろう」と評した。五月、鄭の厲公が死去。王は鄭伯へのもてなしの礼に、王后の鏡付き帯を賜った。虢公が器物を求めるとこれには爵を賜った。鄭伯はこれを不満とし、以後王と不和になった(後の僖公二十四年、鄭が王を捕らえる伏線となる)。