春秋左傳事類始末魯文公薨去、斉懿公弑される(魯文公薨齊懿公弑)
斉侯が魯を繰り返し侵しては盟約を結ぶことを続ける中、魯の文公が病を占わせて凶兆を得ながら薨去。斉では即位前の遺恨から邴歜・閻職の父・妻を辱めた懿公が二人に弑され、公子元が立てられるまでを描く。文公十五年から十八年に至る。
年表(4件)
- 文公十五年(前612年)斉侯が魯の西鄙を侵した
- 文公十六年(前611年)斉侯の病を機に魯が郪丘で盟約を結んだ
- 文公十七年(前610年)斉侯が魯の北鄙を攻め榖で盟約が結ばれ、二月に文公が薨去した
- 文公十八年(前609年)斉の懿公が邴歜・閻職に弑され、公子元が立てられた
文公十五年(前612年)
- 斉侯が魯の西の辺境を侵した。
文公十六年(前611年)
- 春、斉侯が病にかかった。魯の季文子は斉侯と陽穀で会見し、盟約を求めたが、斉侯は応じなかった。
- 魯は襄仲を通じて斉侯に贈り物を送り、その結果、郪丘で盟約が成立した。
文公十七年(前610年)
- 斉侯が魯の北の辺境を攻めた。襄仲が盟約を求め、六月に榖で盟約が結ばれた。
- 冬、襄仲は斉に赴き榖の盟約に謝意を伝えた。帰国後、「斉の人々は魯の麦を食い尽くすつもりだと聞いたが、私が見たところ、斉侯の言葉はいい加減で実行されないだろう」と復命した。臧文仲は「民の主がいい加減であれば、必ず滅びる」と述べた。
- 斉侯は出兵の時期を定めたが病にかかった。医師は「秋を待たずに死ぬだろう」と告げた。文公はこれを聞き占わせたところ、「まだその時期には至らない」と出た。恵伯が亀甲での占いを命じ、楚丘が占って「斉侯はその時期を待たずに死ぬだろう、これは病のせいではない。しかし主君(文公)も占いに凶事があったことを聞かないだろう」と告げた。
- 二月、文公が薨去した。
文公十八年(前609年)
- 斉の懿公はかつて公子であった頃、邴歜の父と田地を争って敗れた。即位すると、その父の遺体を掘り出して足を切断する刑を加え、邴歜を自らの御者とした。また閻職の妻を奪って後宮に入れ、閻職を車右(驂乗)とした。
- 夏、懿公が申池に遊んだ際、邴歜と閻職の二人が池で水浴びをした。邴歜が鞭で閻職を打ったところ、閻職は怒って「お前は妻を奪われても怒らなかったのに、私が一度鞭で打っただけで何がそんなに傷つくのか」と言い返した。邴歜は「父を足切りにされてもなお平気でいられる者と、妻を奪われて平気な私と、どちらがひどいか」と応じた。
- 二人は共謀して懿公を弑し、遺体を竹林の中に投げ捨て、帰って酒杯を置いて出奔した。斉の人々は公子元を立てた。