春秋左傳事類始末楚、庸を滅ぼす(楚滅庸)
楚が大飢饉に乗じた戎・庸・百濮の侵攻に遭う中、蒍賈の進言で遷都を退けて出兵し、師叔の持久策により庸を油断させ、最終的に秦・巴・諸蛮を従えて庸を滅ぼした一件。
年表(1件)
- 文公十六年(前611年)楚が飢饉に乗じた庸・百濮の侵攻を退け出兵し、ついに庸を滅ぼした
文公十六年(前611年)
- 楚は大飢饉に見舞われ、その隙に戎が西南から阜山まで、また東南から陽丘まで攻め込み、訾枝を侵した。庸の人々は多くの蛮族を率いて楚に反旗を翻し、麇の人々は百濮を率いて選の地に集結し、楚を攻めようとした。このため申・息の北門は開かれなかった(守りを固めて出兵できなかった)。
- 楚では都を阪高に移そうとする議論が起きたが、蒍賈は「いけません。我々が行ける所には敵も行けます。むしろ庸を攻めるべきです。蛮族や百濮は我々が飢えて軍を出せないと見て攻めてきているのです。もし出兵すれば、彼らは恐れて引き上げるでしょう。百濮は各地に散らばっているので、それぞれ自分の邑に逃げ帰り、我々に謀反を企てる余裕などなくなります」と進言した。
- 楚は出兵し、十五日のうちに百濮は退散した。廬から先は倉を開いて兵と共に食糧を分かち合い、句渚に陣を敷いた。廬の戢棃に命じて庸を侵させ、庸の方城に至った。
- 庸人はこれを追撃し、子揚窗を捕らえたが、三晩の後に脱走した。子揚窗は「庸の軍は多く、蛮族も多く集まっている。大軍を再結集し、王自らの軍が合流してから進むべきだ」と進言した。師叔は「いや、しばらく小競り合いを繰り返して相手を驕らせよう。相手が驕り、我々が怒りを募らせてこそ勝てる。かつて先君の蚡冒が陘隰を服属させたのもこの方法だった」と述べた。
- 楚は庸と七度戦い、七度とも敗れたが、禆儵と魚の人々だけが本気で追撃した。庸人は「楚はもはや戦うに値しない」と油断し、備えを解いた。
- 楚子は駅馬で臨品に軍を集結させ、二隊に分けた。子越は石渓から、子貝は仞から出撃して庸を攻めた。秦・巴の軍も楚軍に従い、諸蛮も楚子に従って盟約を結び、ついに庸を滅ぼした。