春秋左傳事類始末宋穆公、殤公を立てる(宋穆立殤)
宋の穆公は自分の子ではなく先君の子・与夷(殤公)を後継に立てて没するが、後に華父督が孔父を殺してその妻を奪い、ついに殤公も弑して鄭にいた荘公を宋公に立てる。督は魯へ賄賂の鼎を贈り、臧哀伯はこれを太廟に納めた桓公を諫めるが聞き入れられなかった。隱公三年(前720年)から桓公二年(前710年)までの宋の内紛を描く。
隱公三年(前720年)
- 宋の穆公は病の際、大司馬孔父を呼び、我が子ではなく先君(宣公)の子・与夷(殤公)を立てるよう託した。「先君は自分の子ではなく私を立ててくれた恩を忘れられない、与夷を助け社稷を守ってくれれば死んでも悔いはない」と述べた。
- 群臣は穆公の子・馮を立てたいと申し出たが、穆公は「先君の徳と譲位の志を無にすることはできない」として拒み、公子馮を鄭に出させた。
- 穆公が没すると殤公が即位した。君子はこれを評し、宋の宣公・穆公はともに人を見る目があり、義によって位を譲ったことを称えた。
史論(君子)
- 宣公が穆公を立てたことで穆公の子(宋の後継)が恩恵を受けるに至ったとし、『詩経』商頌の「殷は天命を受けて善政を行い、多くの福を得た」の句に通じると評した。
桓公元年(前711年)
- 宋の華父督が道で孔父の妻を見かけ、目で追いながら「美しく艶やかだ」と評した。
桓公二年(前710年)
- 華父督は孔父を殺してその妻を奪った。宋公が怒ると、督はそれを恐れ、ついに殤公も弑逆した。
- 殤公在位十年で十一度の戦があり、民は苦しんでいた。督は「これは司馬(孔父)の仕業だ」と民に言いふらして人心を利用し、孔父を殺し殤公を弑した後、鄭にいた荘公を呼び戻して宋公に立てた。
- 督は鄭との親交を結び、郜の大鼎を荘公(魯公)に贈って賄賂とし、宋の宰相となった。
- 魯の桓公はその年の夏、宋から郜の大鼎を受け取り太廟に納めた。臣下の臧哀伯はこれを諫め、君主は徳を明らかにし不正を防いで百官の手本とすべきであり、賄賂の器を太廟に置くことは徳を捨てて不正を立てることに等しいと説いた。
- 臧哀伯は、古の礼制における質素な祭祀・服飾・車馬・旗章などの規範を挙げ、それらが徳・度量・数・文・物・声・明を示すものであると論じ、周の武王が殷から九鼎を遷した際にも義士がこれを非難したことに触れ、まして不正の賄賂の器を太廟に飾ることの不当性を訴えた。
- 桓公はこの諫言を聞き入れなかった。周の内史はこれを聞き、「臧孫達の子孫は魯で栄えるだろう、君主の非を忘れず徳をもって諫めたのだから」と評した。