春秋左傳事類始末周と鄭、不和になる(周鄭交惡)
周の平王が鄭伯の政務権限を虢公にも分けようとしたことから周鄭間の信頼が崩れ、人質交換にまで至る。桓王の代には鄭を冷遇し田の交換で不利益を与えたため関係はさらに悪化し、ついに繻葛の戦いで王の軍は鄭に大敗する。隱公三年(前720年)から桓公五年(前707年)にかけての王室権威の失墜を描く。
年表(5件)
- 隱公三年前720年周と鄭が互いに信を失い人質を交換する事態となる
- 隱公六年前717年鄭伯が初めて桓王に朝見するが礼をもって遇されず
- 隱公八年前715年虢公忌父が初めて周の卿士となる
- 隱公十一年前712年王が鄭の田を取り上げ蘇忿生の田と交換し鄭の心を失う
- 桓公五年前707年繻葛の戦いで王が鄭に大敗し祝聃に射られる
隱公三年(前720年)
- 鄭の武公・荘公は代々周の平王の卿士を務めていたが、平王が虢公にも政務を分け与えようとしたため鄭伯が王を恨み、王は否定した。信頼が崩れたため、周と鄭は互いに人質を交換する事態となった。
- 平王が崩じ、周が政務を虢公に委ねようとすると、鄭の祭足は軍を率いて温の麦、成周の禾を刈り取った。これにより周と鄭の関係は決定的に悪化した。
- 君子はこれを評し、誠意によらない人質には意味がなく、礼をもって相互に信を尽くせば些細な供物でも神明・王公に捧げうるものとなる、質を用いること自体が誤りだと論じた。
史論(君子)
- 信義が心から出ていなければ人質を取っても無益であり、誠意と礼をもって行えば人質は不要である。粗末な供物でも真心があれば神や王侯に捧げうるとし、周鄭の人質交換そのものを批判した。
隱公六年(前717年)
- 鄭伯が初めて周の桓王に朝見したが、王は礼をもって遇さなかった。
- 周公が「周の東遷は晋・鄭の助けによるものであり、鄭を厚遇して他国の来朝を促すべきなのに、礼を欠けば鄭はもう来ないだろう」と王に諫言した。
隱公八年(前715年)
- 虢公忌父が初めて周の卿士となった。
隱公十一年(前712年)
- 王は鄔・劉・蒍・邘の田を鄭から取り上げ、代わりに蘇忿生の田を鄭に与えた。君子はこれにより、徳をもって恕(おもいやり)を行うことこそ道の則であり礼の常道であって、自らの持たぬ土地を与えて相手を繋ぎ止めることはできず、桓王が鄭の心を失ったのも当然だと評した。
桓公五年(前707年)
- 王は鄭伯の政務権限を奪い、鄭伯が朝見しなくなったため、王は蔡・衞・陳の軍を率いて鄭を討った。
- 鄭の子元は左右の陣立てを提案し、陳軍の混乱を見越して先に陳を攻めれば蔡・衞も浮き足立って崩れると読み、王の中軍を集中して攻めれば勝機があると献策した。
- 曼伯・祭仲足・原繁・高渠彌がそれぞれ布陣し、繻葛で戦い、蔡・衞・陳の軍はいずれも敗走、王の軍も大敗した。
- 祝聃が王を射て肩に当てたが、王はなお軍を保った。祝聃は追撃を進言したが、鄭伯は「君子は人の上に立とうとせず、まして天子を凌辱すべきでない、自国を救えればそれで十分」として追撃を止めた。