春秋左傳事類始末州吁、衛桓公を弑す(州吁弑桓)
衞の荘公に寵愛された州吁は石碏の諫めを聞かず、隱公四年に桓公を弑して自立し、宋・陳・蔡と結んで鄭を討つが民心を得られない。石碏は自らの子・厚も州吁と同罪として処断させ、州吁と厚は陳で捕らえられ処刑された。隱公三年(前720年)から四年にかけての衞の内乱を描く。
隱公三年(前720年)
- 衞の荘公は斉の東宮得臣の妹・荘姜を娶ったが子がなく、さらに陳の厲媯を娶り孝伯を生んだが早世、その妹の戴媯が桓公を生み、荘姜は桓公を自分の子として育てた。
- 荘公の側室の子・州吁は寵愛を受け武を好んだが、荘公はこれを制しなかった。
- 家臣の石碏は、子を愛するなら義をもって導き邪に流されぬようにすべきと諫め、寵愛・驕り・贅沢・放埒の四つが積み重なって州吁を後継に立てる動きにつながっていると指摘し、賤が貴を妨げ、少が長を凌ぎ、疎が親を離間し、新参が旧臣を凌ぎ、小が大に取って代わり、淫が義を破るという「六逆」を戒め、君義・臣行・父慈・子孝・兄愛・弟敬の「六順」に従うべきだと説いたが、聞き入れられなかった。
- 石碏の子・厚は州吁と親しく交わり、石碏が止めても聞かなかった。桓公が即位すると石碏は隠退した。
隱公四年(前719年)
- 州吁は桓公を弑して自ら位に就いた。かつて宋の殤公即位の際に出奔していた公子馮を鄭が呼び戻そうとしていたことがあり、州吁は即位後、諸侯の歓心を得るため先君の鄭への遺恨を晴らそうとし、宋に呼びかけて共に鄭を討つ軍を起こした。宋・陳・蔡・衞の連合軍が鄭を攻めた。
- 魯の隠公が衆仲に「衞の州吁は成功するか」と問うと、衆仲は「徳によらず乱によって治めようとするのは糸を治めるのに却って乱すようなもの、州吁は武力に頼り残忍で、民衆にも身内にも見放され、必ず失敗する」と答えた。
- 州吁が民心を得られずにいると、厚は石碏の父に安定して即位する方法を尋ねた。石碏は「陳の桓公は周王に寵愛されており、陳と衞は親しいので、陳を通じて周王に朝見を願えばよい」と勧めた。
- 厚は州吁とともに陳に赴いたが、石碏は事前に陳へ使いを送り、「衞は小国で老いた自分には手立てがない、この二人こそ先君を弑した者である」と伝え、陳人は二人を捕らえて衞に引き渡すよう求めた。
- 衞は右宰醜を遣わし濮で州吁を、石碏は自分の家臣・獳羊肩を遣わし陳で厚を処刑させた。
- 君子はこれを評し、石碏は忠臣であり、州吁を憎みながらもわが子の厚も同罪として処断したことを「大義親を滅す」と称えた。
- 衞人は邢にいた公子晉を迎えて立てた。
史論(君子)
- 石碏が州吁を憎むあまり自らの子である厚も連座させて処罰したことを、大義のためには肉親の情も顧みないという意味の「大義滅親」の実例として称賛した。