樵史通俗演義第三十九回 左将軍、檄文して逆を討ち、史閣部、血涙して師に誓う (左將軍檄文討逆 史閣部血淚誓師)
史可法の焦慮
- 四月八日、史可法は三度緊急を訴えたが、弘光帝は「上流が急なら上流を、北兵が急なら北兵を防げ」と要領を得ない指示を返すのみで、史可法は「側近の奸臣を除かずして先帝の仇である北兵とだけ戦うのか」と嘆いた。馬士英に増兵を求めても、実効のない人事で応じるばかりであった。
左良玉の討馬檄文
- 左良玉軍は九江・安慶を経て建徳に迫り、檄文を各地に張り出した。その内容は馬士英の罪状を列挙するもので、要旨は次の通り。
- 出自卑しく先帝への義理もないのに擁立の功を誇り、事あるごとに先帝の遺志に背いた。
- 官爵を売り、罪人まで登用する一方で忠良を陥れた。
- 兵権を独占し、阮大鋮ら奸党を重用して殺伐の限りを尽くした。
- 後宮選定を私物化し、密かに歌女を阮大鋮の家に囲わせた。
- 忠臣を次々と冤罪に陥れ、天下の士紳を震え上がらせた。
- 私兵を宮中に潜ませ帝の動静を探らせ、「廃立は我が意のまま」と豪語した。
- 正統な皇太子を幽閉し、天下の公論を無視している。
- 檄文は馬士英・阮大鋮の誅殺を求め、左良玉が兵を興した大義を天下に訴えるものであった。
馬士英、防備そっちのけで自衛に走る
- 馬士英は檄文に動転し、清兵の南下を訴える上奏(劉洪起・王永吉ら)を放置し、もっぱら左良玉への備えに終始した。
- 史可法は召見を求めたが「両方が急を要する今は面会は凱旋後に」とかわされ、清軍南下の危機と鎮将の怠慢を訴える上奏も馬士英に握りつぶされた。逆に上流での小勝を誇張して報告し、諸将に恩賞が乱発された。
- 太僕寺丞張如蕙は服喪で帰郷する際、旅費まで軍費として取り上げられるなど、朝廷の混乱は民にも及んだ。
- 人事は江北防衛よりも左良玉封じ込めを優先する布陣となり、史可法の入朝奏事すら妨げられる有様であった。史可法は「江北には四藩・督師・撫按・屯撫・総督とこれだけの体制がありながら実効がない」と重ねて訴えた。
- 弘光帝は一時反省の色を見せ、淮揚死守を命じたが、馬士英は「朝臣は左良玉の一味だ」と一喝し、清兵よりも左良玉を恐れる姿勢を崩さなかった。
淮安の陥落と忠臣の死
- 給事中呉適が方国安・牟文綬の略奪を弾劾すると、馬士英は逆に呉適を投獄した。後に方国安が浙江で乱暴狼藉を働いたことで、人々は呉適の正しさを悟った。
- 清軍が淮北に迫ると、劉沢清は恐慌して淮安を略奪しながら西へ敗走した。史可法は血書をしたためて急使を送り救援を求めたが、馬士英はなお左良玉ばかりを警戒し、清軍の脅威を軽視した。
- 四月二十三日、清軍は淮河を渡り淮安はほとんど無抵抗で陥落した。一人の秀才が「淮安の人間には意気地がない」と嘆き、投身して果てた。侍郎衛胤文は屈せず節に殉じ、清の将は敬意を表して手厚く葬った。
揚州の誓師
- 史可法は揚州旧城で兵を鍛えつつ淮安救援を期していたが、清軍が淮河を渡ったと聞き「もはやこれまで」と嘆き、諸将を教場に集めて祭旗を行った。
- 監軍史継遷は死守を叫び、参謀劉湘客は登聞鼓を打って援軍を求めることを進言、将士は歓呼した。
- 史可法は祭壇に伏して血の涙を流しながら祖宗の霊に加護を祈り、将士も感涙して奮起を誓った。史可法は血書をしたため、劉湘客に託して南京へ急がせた。