樵史通俗演義第三十回 衆閹、門を開き闖賊を迎え、群忠、節を靖んじ君恩に報ゆ (眾閹開門迎闖賊 群忠靖節報君恩)
用人の失策
- 温体仁が八年にわたり首相を務めた後も、朝廷は人材登用を誤り続けた。知兵の孫承宗や勤王の范景文は活かされず、消極的な楊嗣昌が重用され賊勢を助長した。
- 周延儒の再登用にも期待が集まったが、賄賂の疑いで自尽を命じられ、後任の陳演も用兵に暗く、孫伝庭は劉宗敏の伏兵の計にかかり大敗、単騎で逃走した。
馬士英と黄得功
- 鳳陽巡撫となった馬士英は高傑・劉良佐を総兵に取り立てた。また、驢馬引きで身を立てていた怪力の黄得功が、貴州の挙人・楊文驄らを賊から素手で守った逸話が語られ、馬士英に見出されて副総兵に至り、「黄大刀」として賊軍に恐れられた。
李自成の西安占拠と大順建国
- 李自成は義兄弟だった革天王・賀一龍を酒宴で謀殺し、羅汝才も謀殺して二部の兵を併合、三百三十万と称する大軍で潼関を破って西安に入城、秦王を追放して官制を整え長安府と改称した。
- 榆林・慶陽を落とし、張献忠と誼を通じた上で、永昌元年と称して皇帝を僭称。大同を攻めた際には、抵抗した巡撫衛景瑗を惨殺している。
山西各地の陥落と忠臣の死
- 李自成軍は禹門で黄河を渡り、臨晋・河津などを次々と攻略。蔡懋德・応時盛は奮戦の末に討死し、代州では周遇吉が寡兵で連戦連勝したものの、寧武関で力尽きて捕らえられ、屈服を拒んで斬られた。李自成はこれに怒り、寧武の城を屠った。
- 宣府では朱之馮が自刎、昌平では李守鑅が抗戦の末自刎するなど、各地で守将が次々に落命した。
崇禎帝の最期
- 都に迫った李自成軍を前に、南遷の議は光時亨らの反対で潰え、崇禎帝は打つ手を失う。
- 十七日、皇城の防備は崩れ、崇禎帝は太監らと脱出を試みるが門は開かず、頼った成国公の屋敷にも入れず、宮中に戻って周皇后と嘆き合う。皇后は自ら縊死した。
- 十九日、崇禎帝は袁妃を手にかけ、長公主の腕を切り、張皇后・李妃にも自裁を命じたのち、煤山にて自ら首を吊って崩御した。太監の王之俊も殉じた。衣の帯には「百姓を一人も傷つけるな」と記した血の遺詔があった。
殉節した忠臣たち
- 京師陥落に際し、多くの官が保身に走る中、范景文・倪元璐・王家彦・孟兆祥一家・周鳳翔・馬世奇・李邦華・施邦曜・劉理順一家・汪偉夫妻・淩義渠・申佳胤・呉麟徴・呉甘来・王章・陳純徳・陳良謨・許直・成徳・金鉉母子・王鍾彦・毛維張・宋天顕・范芳・謝於宣ら、多数の文武官が自刎・投井・縊死などにより殉節した。
- 新楽侯劉文炳一族、駙馬都尉鞏永固とその子女、恵安伯張慶臻一家、襄城伯李国楨、宣城伯衛時春、嘉定伯周奎の一族なども、投火・投井・自刎などで一族ぐるみ命を絶った例が続いた。
評語
- 明朝滅亡に際し、忠臣・烈士の殉節は唐宋の滅亡時にもまさるほど盛んであったと総括し、名も残らぬ市井の民や婦女の殉難も数知れなかったと結ぶ。