樵史通俗演義第三十一回 智士、形を潜め死を免れ、辺帥、志を憤り么么を逐う (智士潛形獲免死 邊帥憤志逐么么)
李自成の入京と偽政権の人事
李自成が北京に入城し、丞相牛金星・大将劉宗敏を左右の腹心とした。甥の李過は殺戮を好んだが、李岩・李牟がたびたび諫めて百姓の撫恤と兵の統制を勧めた。二十日に安民の榜が出され「一人も妄りに殺さぬ」と誓われた。牛金星は在京文武官に旧職を報告させ、使う者は登用、使わぬ者は帰郷を許すが、隠して報告しない者は一族誅殺とする布告を出した。翌日、官員はこぞって出頭し、李自成らが批点して用不用を分け、不用の者は李過の営に幽閉して処分を待たせた。以後も選官の榜が次々出され、寧遠鎮守や地方官への任命が続いた。人々の反応は喜ぶ者と憂える者に分かれたが、大半はやむを得ず従った。
難を避けた智士たち
江西吉水の劉貢生は天文・堪輿に通じ、甲申の年に天象を見て明朝の不利を知り、選官に応じず姿を消した。知一禅師は呉江の進士呉陽に忠孝の道理を説き、受けた布施を返して東便門から共に脱出させ、自らは行方をくらました。東直門の関王廟の一懶道人は錦衣衛指揮張同方に南へ逃れるよう勧めたが、張は聞き入れず、後に賊兵によって同僚二百余人とともに斬られた。世に隠れて難を避けた者は多く、乞食に身をやつすなどして賊の手を逃れた。
幽閉された官員たちの受難
李過の営に幽閉された翰林楊汝成・給事中彭琯ら五十二人は、金銀も伝手も持たぬ者ばかりで、日々拷問を受け続けた。閣老魏藻德・陳演・丘瑜らも夾刑を受け、四月十三日には魏藻德・陳演・丘瑜・国公朱純臣ら六人が西市で斬られた。李自成は宮女を皇后・皇妃に立てたが、即位には不吉な兆しが続き、鋳銭も「泰昌」の字に変じるなど、なかなか帝位に就けなかった。
呉三桂の決起
牛金星は李自成に即位を勧め、儀礼の日取りを定めて太廟の神主を焼くなど強行したため、京師の人心は離れた。折しも山海関総兵呉三桂が義兵を挙げたとの報が入る。李自成は父呉襄を人質に降伏を迫る書を送らせたが、呉三桂は使者を斬り、忠孝両全のならぬ憤りを綴った書を父に送って決別を告げ、清に援兵を乞うた。清は洪承疇・祖大寿の取りなしもあって大軍を発し、共に賊を討つこととなった。
山海関の戦いと李自成の敗走
李自成は自ら兵を率いて呉三桂を迎え撃つが、清・呉連合軍の前に大敗し、屍山血河となって北京へ敗走した。呉軍が城下に迫ると、参将馮有威が降将唐通を討ち取り、劉宗敏も矢傷を負って敗走、賊は次々と寨を落とされた。李自成は城上から呉三桂に父の助命と引き換えに降伏を促すも拒まれ、怒って呉襄を斬り首級を城頭に晒したため、呉三桂の攻撃はいよいよ激しくなった。
幽閉官員の処刑と李自成の西走
李自成は牛金星・宋献策の勧めで西の陝西へ退くことを決め、李過に幽閉中の官員の釈放を命じたが、李過は金銀も得られず服従もしない官員たちをことごとく縄で絞め殺し、五十二人のうち彭琯・申済芳のみ息を吹き返して助かった。牛金星は先に即位を済ませてから撤退しようと図り、二十九日未明に李自成は即位の礼を行い、翌日の出発を命じた。夜、宮中に放火するが火が回らず五鳳楼のみ焼け、九門にも火を放って北京を離れた。
定州での決戦
呉三桂は追撃し、途中で賊軍を破って金銀美女を奪還した。五月初二日、定州清水河で賊将谷大成を討ち取り、光先も落馬して負傷、賊将三人を斬るなど大勝を収めた。呉三桂は定州に陣を張り、討った将の首級で父の霊を祭り、奪還した金銀を将兵に分け与えて士気を高めた。