樵史通俗演義第十九回 劉の冤を伸べ奸弁伏法し、遺孽を鋤き各逆を典刑す (伸劉冤奸弁伏法 鋤遺孽各逆典刑)
張休乾の断罪
- 工科給事中の郭興邦が、揚州知府劉鐸を陥れた張休乾・谷応選の罪を糾弾する上奏を行った。
- 陳御史・俞寺副・范郎中・申員外らによる審理が行われ、張休乾が劉鐸に符呪の罪を捏造して陥れた経緯、谷応選がその指図に従って動いた経緯が明らかになった。
- 審理の結果、張休乾は死刑(斬決不待時)、谷応選は絞刑(秋後処決)と裁定され、刑部尚書らの連名の上奏を経て崇禎帝の裁可が下った。張休乾は処刑され、谷応選は獄中で死んだ。
- あわせて崇禎帝は、過酷な刑具の使用を禁じ、旧来の刑具を焼却するよう命じた。
魏良卿・侯国興・崔鐸の断罪
- 朝臣たちは、魏忠賢・崔呈秀・客氏の残った子や甥に対しても厳罰を求める上奏を相次いで行った。
- 曹御史らによる審理で、魏良卿・侯国興は宮中での不正、忠臣の弾圧・獄死への関与を追及されたが、当初は「伯父の仕業で自分は知らない」と弁明した。
- 崔鐸も父崔呈秀の罪状(忠臣殺害、弟の総兵昇進、生祠建立など)を突きつけられたが、同様に父の罪を自分とは無関係と主張した。
- 拷問を示唆されると三人とも観念して罪を認め、供述に署名した。
- 続いて盗まれた宝物の件について、客璠・客光先・楊六奇・戚畹・范守仁らも合わせて審理され、押収品の記録が動かぬ証拠となって全員が罪を認めた。
- 刑部・都察院・大理寺の連名の上奏を経て、崇禎帝は魏良卿・侯国興を斬刑、客光先・客璠・楊六奇を辺境への永久従軍と裁定した。十二月二十日、魏良卿(三十歳)・侯国興(十八歳)は西角頭で処刑された(詩:栄華を極めた者が空しく死んだことを詠む)。
魏忠賢・崔呈秀・客氏への最終裁定
- 年末が迫る中、三法司は魏忠賢・崔呈秀・客氏の罪状をまとめた上奏を行った。魏忠賢の宮中における専横・忠臣殺害・私兵蓄積、客氏の後宮での陰謀、崔呈秀の不忠・不孝・不正蓄財などが列挙された。
- 崇禎帝はこれを容れ、魏忠賢の遺体を河間府で戮屍凌遅、崔呈秀の遺体を薊州で斬首、客氏の遺体も見つかり次第斬首するよう命じた。また爰書(判決文)を各地に公布し、奸悪の戒めとするよう命じた。
- 幼い魏良棟・魏鵬翼・崔鏜・崔鑰らは幼少無知として赦免された。魏志德は充軍とされた。
- 各地の撫按の手で、魏忠賢の戮屍凌遅と崔呈秀の斬首が執行された。客氏の遺体は結局見つからなかった(詩:善悪の報いは必ずあり、巨悪もついに屍を辱められたことを詠む)。