樵史通俗演義第十二回 義を殺し人心公憤し、濫祠は祖制を蔭して紛更す (殺義死人心公憤 濫祠蔭祖制紛更)
馮銓の失脚
- 魏廣微は退けられたが寧遠の功に乗じて世千戶の恩蔭を得た。首相顧秉謙は魏忠賢の義子となって権勢に阿った。
- 新たに入閣した馮銓は崔呈秀の専横に反発し、密かに彼を排除しようとしたが、逆に崔呈秀に讒言され、王恭廠の天災を口実に魏忠賢によって罷免された。
劉鐸事件と義士の処刑
- 揚州知府劉鐸の案件で、刑部の司官(高默・陳振豪・徐日葵・湯本沛)は公正な審理を貫き、劉鐸らの罪を軽く定めたが、魏忠賢の激怒を買い、四人とも降格・左遷された。閣老黄立極の取りなしでかろうじて命は助かった。
- 劉鐸・劉福・曾雲龍・彭文炳は西市で斬首、方景陽は戮屍とされた。
- 蘇州では、周順昌の棺が届いたことを機に、顏佩韋ら義士五人(顏佩韋・楊念如・沈揚・馬傑・周文元)が毛都堂への抗議の言を漏らしたことが密告され、急遽処刑される。彼らは死を恐れず堂々と刑に臨み、群衆数千人が見守る中で処刑された。生員王節ら五人は学籍を剥奪されるにとどまった。
毛都堂の急死
- 五人処刑ののち侍郎に昇進した毛一鷺は、帰郷して祝賀を受けていた最中に急死した。世間は五義士の祟りと噂した。
吳養春・程夢庚の獄死
- 徽州の富豪吳養春が家人の讒言により東廠に告発され、財産を没収された上に獄死。同じく富豪の程夢庚も巻き込まれて獄死し、両家の財産はすべて没官された。
魏忠賢の専横の極み
- 魏忠賢は肅寧侯に加封され、孫の魏鵬翼(当時五歳)に錦衣衛指揮の世襲を与えるなど、一族への恩蔭を極限まで拡大した。
- 田爾耕・楊寰・孫之鶴・許顯純らも次々に加官された。
- 順天府丞劉志選が皇后の父張國紀を讒訴し中宮を揺るがそうとしたが、天啟帝はこれを退けた。
- 忠賢は正人の翰林官らを次々に削籍させる一方、腹心らを尚書・侍郎に濫用に昇進させ、官界の秩序は完全に崩壊した。
- 甥の魏良卿は寧國公に封じられ、各地に魏忠賢の生祠が建てられるなど、世は諂いと恥知らずが極まった。