蜀鑑本朝の王全斌、蜀を下す(本朝王全斌下蜀)

宋の太祖が王全斌を鳳州路、劉光義を帰州路に分けて後蜀を討ち滅ぼした戦役。蜀主孟昶が北漢へ送った密書が趙彦韜に献上されたことが出兵の名分となり、乾徳二年(964年)十二月、王全斌は興州・興元・利州を抜き、劉光義は太祖の授けた策で夔州の鎖江を破って高彦儔を焼身に追い込む。翌乾徳三年正月には来蘇の間道を衝いて剣門を破り、王昭遠を捕らえ、魏城に迫ると孟昶が降表を奉じて成都は落ちた。入城後の掠奪を曹彬だけが戒めたことも記す。

年表(3件)

太祖皇帝乾徳二年(964年)

  • 王全斌が鳳州路都部署、劉光義が帰州路副都部署とされ、道を分けて蜀を討った。
  • 蜀の知枢密院王昭遠は、蜀主に使者を送って北漢に并門から南下させ、蜀は黄花・子午谷から兵を出して呼応し、中原を挟撃して関右の地をうかがうよう勧めた。蜀主は趙彦韜らに蝋丸に封じた帛書を持たせて北漢主劉鈞に送り、黄河を渡って共に攻め込む約束をした。ところが彦韜は都へ来るとその書を差し出して献上し、太祖は笑って「これで西討の名分ができた」と言った。
  • 翰林医官の穆昭嗣ははじめ高季興に仕えていたので、太祖が蜀中の地理を問うと、「荊南は西川・江南・広南への要衝です。すでにここを取った以上、水陸どちらからでも蜀へ進めます」と答えた。太祖は笑い、王全斌らに道を分けて進討を命じた。
  • 太祖が地図を出して「西川は取れるか」と問うと、禆将の史延徳が進み出て「西川が天上にあるなら届きませんが、地上にあるなら平らなものです」と答えた。蜀主は北軍来襲を聞き、王昭遠らに兵を率いさせて防がせた。

乾徳二年十二月(964年)

  • 王全斌が興州を取った。全斌らは乾渠・万仞・燕子などの砦を攻め落として興州を取り、蜀兵七千を破って軍糧四十余万石を得た。刺史の藍思綰は西県へ退いて守った。全斌はさらに石圌・魚関・白水閣など二十余の砦をすべて抜いた。
  • 蜀の山南節度使韓保正が城を捨てて逃げ、史延徳が興元に入って追撃し捕らえた。蜀軍は葭萌へ退いて守った。保正は興州陥落を聞いて山南を捨て西県へ退いたが、史延徳が先鋒として到着すると、臆病で出戦できず、数万の兵を山に依り城を背にして固めさせた。延徳はこれを撃退し、追って保正とその副の李進を捕らえ、糧三十余万斛を得た。禆将の崔彦進と康延澤らは敗走する敵を追って三泉を過ぎ、嘉州にまで至って多くを殺傷した。蜀軍は桟道を焼き切って葭萌に退き守った。
  • 劉光義が夔州に入り、蜀の守将高彦儔が戦死した。光義らは松木・三会・巫山などの砦を次々に破り、将の南光海らを殺し、戦棹都指揮使の袁徳宏らを生け捕り、戦艦二百余艘を奪い、さらに水軍六千余を斬り捕らえた。
  • もともと蜀は夔州で長江を鎖で閉ざして浮橋を渡し、その上に三重の柵を設け、両岸に石弾の投射器を並べていた。出発にあたり太祖は地図でその場所を指し、「流れを遡ってここに至ったら、決して水軍で勝負を挑むな。まず歩騎をひそかに出して撃ち、敵がやや退いたところで戦艦と挟み撃ちにすれば必ず破れる」と教えた。光義らは鎖のある地点の三十里ほど手前で船を下り、進んで浮橋を奪い、あらためて船で遡って白帝廟の西に駐屯した。
  • 守将の高彦儔は副将の趙崇済・武守謙に「北軍は険を越えて遠来したから速戦が有利だ。堅く守って待つべきだ」と説いたが、守謙は「敵が城下にいるのに撃たずに何を待つ」と言い、千人を率いて出た。光義も張廷翰らに兵を出させ、猪頭鋪で守謙と戦ってこれを敗走させ、その勢いで城壁に登った。彦儔が兵を整えて出戦したときには、廷翰らはすでに城内に入っていた。彦儔は力戦したが勝てず、十余の槍傷を負い、左右の者も散り去った。彦儔は屋敷へ戻り、判官の羅済が蜀へ帰るよう勧めると、「私はかつて秦川を失い、今またここを守れない。たとえ主君が私を殺さずとも、どの面下げて蜀の人に会えようか」と言い、符印を羅済に授けて戸を閉ざし、衣冠を整えて再拝し、楼に登って火を放ち焼身した。
  • 王全斌が利州に入った。全斌は蜀人が桟道を断って大軍が進めないため、羅川路から蜀に入る案を議した。康延澤はひそかに崔彦進に「羅川路は狭く並進できない。兵を分けて桟道を修復し、深渡で大軍と合流するのがよい」と説いた。彦進が全斌に伝えると許され、数日で桟道が完成した。
  • そこで進撃して金山寨を撃ち、小漫天寨も破った。全斌も大軍を率いて羅川から深渡に至り彦進と合流した。蜀人が川に依って布陣すると、彦進は張万友らに撃たせて橋を奪った。夜になり蜀人は大漫天寨へ退いて守った。翌日、彦進・延澤・万友が三方から攻めると、蜀人は精鋭を挙げて防いだが大敗し、勢いに乗って砦を抜かれた。王昭遠と趙崇韜が兵を率いて戦ったが三たび敗れ、利州の地まで追われて逃げ去り、桔柏津を渡って浮橋を焼き、剣門へ退いて守った。全斌らは利州に入り、軍糧八十万斛を得た。

乾徳三年正月(965年)

  • 王全斌らが剣州に入った。蜀主は王昭遠らの敗報に大いに恐れ、兵を募って剣門を守らせ、太子の玄喆を元帥とした。
  • 王全斌らは利州から剣門へ向かい、益光に宿営して評議した。「剣門は天険で、古来一人が矛を持てば万人でも当たれぬと言われる。進取の策を考えよ」と全斌が言うと、軍頭の向韜が答えた。「降兵の話では、益光の川の東、大きな山をいくつも越えたところに来蘇という峡があり、蜀人は川の西に柵を置いている。対岸から渡れば、そこから剣門の南二十里の青彊店で官道に合流する。大軍がこの道を行けば剣門の険も頼りにならない」。
  • 全斌らがそこへ向かおうとすると、康延澤が言った。「蜀人は度々戦って度々敗れ、胆力を失っている。急攻すれば陥せます。しかも来蘇は狭い間道で、主帥自ら行くべきではない。偏将を一人遣わすだけでよい。青彊に達したら北で大軍と剣門を挟み撃ちにすれば、昭遠らは必ず擒にできます」。全斌らはこれを容れ、史延徳に兵を分けて来蘇へ向かわせ、川に浮橋を架けて渡らせた。蜀人はこれを見て砦を捨てて逃げ、延徳は青彊に至った。
  • 王昭遠らは兵を退いて漢源坡に駐屯し、偏将を残して剣門を守らせた。全斌らは精鋭で奮撃してこれを破り、漢源に至った。趙崇韜は陣を布いて馬に鞭打ち先頭に立ったが、昭遠は胡床に座り込んで立ち上がれなかった。崇韜は敗れてなお自ら数人を斬ったのち捕らえられ、昭遠は兜を脱ぎ甲を捨てて逃げた。全斌らは剣州を取り、昭遠も追撃の騎兵に捕らえられた。太子玄喆らは遊興にふけって軍政を顧みず、綿州まで来て剣門陥落を聞くと、軍を捨てて西へ帰った。
  • 王全斌が魏城に進み、蜀主孟昶が上表して降を請い、全斌らは成都に入った。蜀の老将石奉頵は兵を集めて堅守するよう請うたが、蜀主は嘆じて「わが父子は豊かな衣食で四十年も士を養ってきたが、いざ敵に遭えば東へ矢一本射てくれぬ。今、城門を閉ざそうにも誰が死力を尽くすものか」と言った。李昊が降伏を勧め、伊審微を遣わして降表を軍前に届けさせた。
  • 劉光義と曹彬が夔門から進み、成都で王全斌らと合流した。光義らが夔門を発つと、万州・施州・開州・忠州などの刺史はみな迎え降り、遂州に至ると知州の陳愈も降った。諸将は通る先々で殺戮をほしいままにしたが、曹彬が禁じてやませた。そのため峡路の軍は最後まで民に一切手を出さなかった。成都に至ると王全斌らは部下に女子供の掠奪を許し、曹彬が繰り返し撤兵を請うたが聞き入れられなかった。その後の経過は国史に詳しいのでここには記さない。

史論(論曰)

  • 唐末五代は天下が分裂し、七姓十三君を経て五十年近く、わずかに中原の地を保つのみで、長江以南は四つに割れ、僭称する者が蜂起した。王建と孟知祥だけの話ではない。
  • 我が宋が興って僭偽を削平した。孟昶は諸侯に先んじて都へ入朝しようとせず、天の討伐を受ける段になって、豊かな衣食では士の心を得られなかったと嘆いたのだから、愚かというほかない。
  • 王師は蜀を平定したのに続いて江南を下し、李煜を捕らえて天下は一つに帰した。歴代の聖天子の撫育と深い仁徳は骨身にしみわたった。