蜀鑑西南夷の本末(上)(西南夷本末上)
蜀の西南の辺境外に住む諸夷と中国との関係を、『通鑑』にならって年次順に整理した篇の前半。漢の武帝が唐蒙・司馬相如を遣わして道を開き犍為・牂牁・越嶲などの郡を置いたところから、昭帝・宣帝期の反乱、王莽期の大規模な離叛、後漢の哀牢夷内附と永昌郡設置、蜀漢の諸葛亮による南中平定と四郡の再編、晉の寧州設置と李雄への帰属を経て、後周・隋が越嶲や南寧を平定するまでの約七百三十年間を扱う。
年表(29件)
- 漢武帝
- 元光四年前131年唐蒙が夜郎への道を開き、犍為郡が初めて置かれる
- 元朔三年前126年西夷の経営を取りやめ、南夷は二県と一都尉のみを残す
- 元狩元年前122年張騫の身毒への道の献策を機に滇國と通じ、経営を再開する
- 元鼎六年前111年苴蘭を平定して牂牁郡とし、越嶲・沈黎・汶山・武都の諸郡を置く
- 元封二年前109年郭昌が滇を撃ち、滇王が降ったので益州郡を置く
- 孝昭帝
- 始元元年前86年益州・牂柯の夷が反し、奔命の兵を発して撃破する
- 成帝
- 河平二年前27年陳立が牂柯太守となり夜郎王興を斬って諸夷を平定する
- 王莽始建国四年12年鉤町王を侯に降した王莽に西南夷が反し、牂牁大尹を殺す
- 王莽天鳳三年16年十万の大軍も夜郎を破れず、越嶲の任貴が太守を殺す
- 光武建武元年25年任貴が公孫述に降る一方、文齊と謝暹は漢に貢を奉る
- 建武十九年43年劉尚が棟蠶を斬り、邛榖王の任貴も不意打ちして誅する
- 建武二十七年51年哀牢夷の賢栗が越嶲太守のもとに降り、朝貢を始める
- 永平十二年69年哀牢王柳貌が内附し、初めて永昌郡が置かれる
- 永平十七年74年白狼王唐菆らが臣を称し、その詩を朱輔が訳して奏上する
- 元初五年118年三郡の夷が封離に応じて叛き、楊竦が大破して降伏させる
- 延光二年123年旄牛の夷が零關を攻め、張喬が破って蜀郡屬國都尉を置く
- 靈帝
- 熹平五年176年諸夷が益州太守雍陟を捕らえ、李顒が討ち平らげる
- 獻帝
- 建安十九年214年劉備が成都を平定し、鄧方を庲降都督とする
- 蜀漢昭烈帝
- 章武元年221年鄧方の没後、李恢が自薦して庲降都督となる
- 後主建興元年223年雍闓が叛いて四郡が呼応し、呂凱だけが永昌を守る
- 建興三年225年諸葛亮が南征し、孟獲を七縦七擒して四郡を平定する
- 建興三年・郡制の改編225年益州郡を建寧と改め、雲南・興古の二郡を新設する
- 建興十一年233年劉胄の叛乱に馬忠が庲降都督となり、これを斬る
- 延熙三年240年張嶷が越嶲太守として郡を平定し、塩鉄漆の地を回復する
- 晉武帝
- 泰始七年271年益州の四郡を割いて寧州を置く
- 光熙元年306年五苓夷が州城を囲み李毅が没し、娘の秀が城を守り抜く
- 咸和八年333年李壽が朱提を抜き、寧州刺史尹奉が降って南中が李雄の手に落ちる
- 晉康帝
- 建元元年343年李壽が獠を蜀に入れ、以後南夷の事は追えなくなる
- 隋文帝
- 開皇十七年597年史萬歳が南寧の羌を撃ち、諸夷が降を請う
篇の趣旨
- 西南夷は蜀の辺境の外にあり、決して些細な問題ではない。漢の武帝が初めて郡県を置いたが、以後は叛いたり服属したりが定まらず、その記事が史書に繰り返し現れる。
- ここでは『通鑑』にならって年次順に整理して記す。
- 武都の氐羌は楊氏の代になって初めて勢力を伸ばし、その地はのちに階州・成州・興州・鳳州などとなって蜀の防壁となったが、それは別に扱ってあるのでこの篇では述べない。
漢武帝元光四年(前131年)
- 唐蒙を中郎將に任じ、南夷への通路を開かせた。あわせて犍為郡を初めて設置した。
- 発端は建元六年の王恢による東越討伐で、番陽令の唐蒙が南越へ使いして説諭に赴いたときのこと。南越で蜀産の枸醬をふるまわれ、出所を尋ねると「西北の牂牁江の道から来る。牂牁江は幅数里、番禺城下に流れ出る」との答えだった。
- 長安に戻った唐蒙が蜀の商人に問うと、枸醬を産するのは蜀だけで、多くはひそかに持ち出して夜郎で売っているという。夜郎は牂牁江に臨み、江幅百歩あまりで船を通せる。南越は財物で夜郎を従わせてはいるが、臣として使役するまでには至っていなかった。
- そこで唐蒙は上書し、南越王は名目上は外臣だが実質は一州の主であり、長沙・豫章からの水路は途切れが多いと指摘。夜郎には精兵十余万がいるので、船で牂牁江を下って不意を突けば南越を制する妙策になるとして、夜郎への道を開いて官吏を置くよう請うた。
- 武帝は唐蒙を中郎將として千人を率いさせ、笮關から入って夜郎侯の多同に会わせた。手厚く賜与し、漢の威徳を説いて官吏設置を約させた。多同らは漢の絹織物を欲しがり、また道が険しく漢が結局この地を保有できまいと踏んで、ひとまず承諾した。唐蒙の復命を受け、武帝はこの地を犍為郡とした。
- 『華陽國志』によれば、かつて楚の威王が莊蹻を遣わし、沅水をさかのぼって且蘭に出て夜郎を討たせた。牂牁(杭)を立てて船をつないだので、且蘭を攻略し夜郎も降した。しかし秦が楚の黔中の地を奪って帰路を失い、そのまま滇池に留まって王となり、且蘭を牂牁國と名づけたという。注に「牂牁は船をつなぐ杙」とあり、後漢書の注では「牂牁江中の名山」とする。笮關は沉黎郡にある。
- また犍為郡の治所は鄨で、元光五年には南廣に移したという。『水經注』は鄨水が符縣南の不狼山から出、県に犍山があると記す。後漢志の注では鄨水は牂牁郡を過ぎて延江水に入る。『水經注』は沅水が且蘭から出て東へ辰陽の南、さらに沅陵縣の西を経ると記す。
- 『寰宇記』によれば、唐の播州・夷州・費州・莊州は秦の夜郎苴蘭縣の西北隅にあたり、今の珍州もその地。また西の髙州に夜郎縣、牂州建安縣に古い夜郎郡城があり、西は施州・黔州に近く東は辰州・沅州に近く、いずれもその範囲である。鄨縣の水が出る符縣は今の瀘州合江縣、南廣は今の敘州南溪縣にあたり、鄨も南廣もともに都江の南にある。
- 司馬相如も中郎將として西夷への道を開き、都尉を置いた。先に唐蒙が数万人を徴発して道路工事にあたらせたところ、僰道から牂牁江に至る行程で死者や逃亡者が続出し、逃亡者を軍法で誅したため巴蜀の民が大いに動揺した。
- 武帝は司馬相如を遣わして唐蒙らを譴責させ、これは天子の本意ではないと巴蜀の民に告諭させた。
- 相如の復命の頃、邛・笮の君長たちは南夷が多くの賜与を得たと聞いて自分たちにも官吏を置いてほしいと願い出た。相如は、邛・笮・冉駹は蜀に近く通じやすいので郡県を置くには南夷よりよい、と答えた。
- そこで相如は中郎將として節を持ち、巴蜀の官吏と幣物を用いて西夷を手なずけた。西夷はみな内臣となることを請い、辺境の関を撤して関所をさらに外へ広げ、西は沫水・若水、南は牂牁までを境界とした。靈關の道を通し、孫水に橋を架けて邛都へ通じ、一都尉と十余県を置いて蜀に属させたので、天子は大いに喜んだ。
- 靈關道は『漢書』地理志では越嶲郡に属す。『寰宇記』によれば靈關山は雅州盧山縣の北二十里にあり峰嶺が険しく、靈關鎮は同縣の北八十二里、四方が険峻で蛮夷を抑える要地、一人で守れば百人を防げるという。『蜀都賦』に「靈關を廓きて門と為す」とある。邛徠山はもと邛笮といい、邛人と笮人の境。邛徠關は雅州榮經縣にある。孫水はもと長河水、また沙水ともいい嶲州臺登縣から出る。繩水は辺境の外から出て、若水は南下して大笮で繩水に合流する。
元朔三年(前126年)
- 西夷の経営を取りやめた。
- 南夷には夜郎の二県と一都尉だけを置き、犍為郡には自力で守らせることとした。注に、自ら守らせて城郭の整備にあたらせる意とある。
元狩元年(前122年)
- 慱望侯張騫が西域から帰り、これを機に滇國と通じ、再び西南夷の経営に着手した。
- 張騫は月氏から帰って西域の風俗を報告した。大宛は漢の真西一万里ほど、大夏は大宛の西南で風俗は同じ。大夏にいたとき邛の竹杖と蜀の布を見かけ、どこで得たか尋ねると、商人が身毒で買ってくると答えたという。身毒は大夏の東南数千里、定住の民で風俗は大夏に近い。
- 張騫の見積もりでは、大夏は漢から一万二千里、漢の西南にあり、身毒はさらにその東南数千里。そこに蜀の産物があるのだから、身毒は蜀から遠くないはず、大夏へ行くにも蜀からが近道だと説いた。
- 武帝は、大宛・大夏・安息はいずれも大国で珍奇な物産に富み、定住して中国と似た生業を営み、兵は弱く財物を貴ぶと聞き、道義をもって従わせれば幾重もの通訳を介して異俗を招き、威徳が四海に及ぶと考え、張騫の言を採った。
- そこで蜀と犍為から密使を四方に出して身毒を探させたが、いずれも一二千里進んだところで、北は氐・筰に阻まれ、南は嶲・昆明に阻まれて通じなかった。ここに初めて滇國と通じ、再び西南夷の経営を始めた。
- 滇池について、『寰宇記』は秦の惠王が滇池を破ってこの地が初めて通じたとする。『華陽國志』によれば滇池縣は滇國の治所で、周囲二百里の沢があり、水の出るあたりは深く広く、下流は浅く狭くて逆流するように見えるという。漢では益州郡の治所、蜀漢はのちに晉寧郡と改め、唐では昆州。滇池は晉寧縣にあって戎州都督府に属し、北は嶲州に接する。戎州は今の敘州である。
元鼎六年(前111年)
- 苴蘭の君が反したので平定し、その地を牂牁郡とした。夜郎侯が入朝したので夜郎王とした。邛都を越嶲郡とした。
- 笮都を沈黎郡、冉駹を汶山郡、廣漢西の白馬を武都郡とした。
- 武帝はさらに邛の君を誅し、あわせて筰侯を殺したので、冉駹の戎などはみな震え上がり、そこで四郡が置かれた。且蘭・夜郎・牂柯については前述のとおり。
- 『寰宇記』によれば、郡内に越水・嶲水があってともに深羌の地から出る。「越嶲」と称するのは威徳を顕彰する意という。越嶲郡は黎州の外にあり、唐は昆明縣を置いた。南は昆明夷に接する。
- 嶲より東北には君長が十数あり筰都が最大で、そこを沈黎郡とした。今の黎州の域である。笮より東北には君長が十数あり冉駹が最大で、そこに汶山郡を置いた。今の茂州の諸羌で、蜀の西にあたる。駹より東北には君長が十数あり白馬が最大で、そこに武都郡を置いた。今の階州・成州・興州・鳳州・文州などの域である。今も茂州から文州へ通じる道がある。
- 元封三年に武都の氐が反し、酒泉へ分けて移された。ここに併せて記しておく。
元封二年(前109年)
- 將軍郭昌を遣わして兵を発し滇を撃たせたところ、滇王が降ったので益州郡を置いた。
- 元狩三年、武帝は昆明を討とうとしたが、昆明には周囲三百里の滇池があるため、昆明池を造って水戦を練習させていた。
- 滇王は衆数万を擁し、その東北には勞深・靡莫という同姓の勢力があって互いに頼み合い、服そうとしなかった。そこで郭昌に巴蜀の人を発して勞深・靡莫を撃たせ、その兵を滇に向けたところ、滇王は国を挙げて降り、官吏の設置と入朝を請うた。よって益州郡が置かれた。
- 漢の史書によれば、夜郎の西には靡莫の類が十数あり滇が最大。北は嶲州に接し、嶲・昆明と称される地は敘州の外にある。詳細は前の注に記した。益州郡の治所は昆明である。
孝昭帝始元元年(前86年)
- 益州・牂柯の夷が反したので、官吏と民を募り奔命の兵を発して撃破した。
- 益州の亷頭・姑繒の民が反して長吏を殺し、牂柯では談指・同並など二十四邑、計三万余人がみな反した。水衡都尉を遣わし、蜀郡・犍為から奔命の兵一万余を発して牂柯を撃ち、大いに破った。
- 亷頭・姑繒は未詳。談指・同並はいずれも漢の牂柯郡の属県。「並」は伴と読む。
始元四年(前83年)
- 姑繒・葉榆が再び反したので、呂辟胡に兵を率いさせて撃たせた。
- 辟胡が進まなかったため蛮夷は益州太守を殺し、勢いに乗ったので、辟胡の戦士は溺死者千余人を出した。
- 『漢書』の「北は葉榆に至る」の注に、葉榆はもと沢の名で、それにちなんで号とし、のちに県となって益州郡に属したとある。
始元五年(前82年)
- 大鴻臚の廣明らが益州の夷を撃って大いに破り、鉤町侯の亡波を鉤町王とした。
- 捕虜三万余人、家畜五万余を獲た。詔して、鉤町侯亡波はその邑長と人民を率いて反乱者を撃ち、斬首・捕虜の功があったとして鉤町王に立て、大鴻臚廣明には關内侯の爵を賜った。
- 鉤町は益州郡の県で、のちに寧川となり、晉では興古郡に属した。興古は唐では盤州にあたり、朱提の外辺に近い。
宣帝地節元年(前69年)
- 武都の白馬氐が反したので、駱武を遣わして平定させた。あわせて汶山郡を廃して都尉を置いた。
- 駱武は白馬羌を平定し、そのついでに汶山の官吏をねぎらった。ところが百姓が駱武のもとへ訴え出て、一年に二度も更賦を課されて負担が極めて重く、辺境の民は貧しくて供給しきれないとして、郡の廃止を求めた。郡の設置以来すでに四十五年であった。
- 駱武がこれを上申し、汶山郡は廃されて都尉が置き直された。
- 按ずるに『華陽國志』では、汶山郡は東は蜀郡、南は漢嘉、西は涼州酒泉、北は隂平に接するとあり、今の茂州汶山縣にあたる。漢代には綿虒縣があった。
成帝河平二年(前27年)
- 西南夷が互いに攻め合ったので、陳立を牂柯太守として討ち平らげさせた。
- 夜郎王の興、鉤町王の禹、漏臥侯の俞がたびたび兵を挙げて攻め合った。論者は道が遠く討てないとしたので、太中大夫で蜀郡出身の張匡を節を持たせて派遣し和解させようとしたが、興らは従わず、木を刻んで漢の使者の像を作り道端に立てて射る有様だった。
- 杜欽が大將軍王鳳に説いた。蛮夷が漢の使者を侮り国威を恐れないのに、論者が及び腰で和解に固執すればまた一時を空費し、相手は兵をまとめて滅ぼし合い、罪の重さを自覚してますます狂暴になり、守尉を犯して高温多湿・毒草の地の奥深くに隠れる。そうなれば孫武・呉起のような将、奔・育のような士でも、水火に飛び込むようなもので、行けば焼け沈むだけ、智勇の使いどころがない。
- ゆえに罪悪がまだ固まらず漢を警戒していないうちに誅を加えるべきだとし、密かに周辺の郡守尉に士馬を鍛えさせ、大司農にあらかじめ穀を要害へ積ませ、任に堪える太守を選んで秋の涼しい時期に入らせ、王侯のうち特に不軌な者を誅すべきだと述べた。
- あるいは、不毛の地・無用の民であり中国を疲弊させるに値しないとするなら、郡を廃してその民を棄て、王侯との関係を断って通交をやめるべきだとも述べた。先帝が立てた累世の功業を壊せないと考えるなら、なおさら芽のうちに断つべきで、形が定まってから兵を出せば万民が害を被る、と。
- 王鳳はこれを容れて陳立を牂柯太守に推した。陳立は着任して興を諭したが従わなかった。そこで陳立は数十人の吏を連れて県を巡行し、興の国に至って興を召し出し、面と向かって罪を数え上げて斬首した。その首を兵衆に示すと、みな武器を捨てて降った。禹と俞は震え上がり、粟千斛と牛羊を差し出して吏士をねぎらった。
- しかし興の妻の父である翁指が残兵を集め、周辺二十二邑を脅して再び反した。陳立はこれも討ち、威名は南方に轟いた。
- 鉤町・漏臥は漢では牂柯郡、のちに興古郡に属し、朱提に近く敘州の外にある。今も敘州には陳立の祠がある。
王莽始建国四年(12年)
- 西南夷が牂牁の大尹を殺した。
- 王莽は帝位を簒奪して漢の制度を改め、鉤町王の位を下げて侯とした。王の邯はこれを恨み、牂柯大尹の周欽が謀って邯を殺した。邯の弟の承が周欽を攻め殺し、州郡が討ったが服させられなかった。
- 三辺の蛮夷が動揺してことごとく反し、さらに益州尹の程隆を殺した。王莽は平蠻將軍馮茂を遣わし、巴・蜀・犍為の吏士を発し、民から取り立てて費用を賄いつつ益州を撃たせたが、三年に及んで疫病で十のうち七が死に、巴蜀が騒然となった。王莽は馮茂を召還して誅した。
王莽天鳳三年(16年)
- 大挙して兵を出し夜郎の蛮を撃ったが勝てず、越嶲の蛮もその太守を殺した。
- 王莽はあらためて将を遣わし、天水・隴西の騎士十万を大動員して撃たせた。当初は数千を斬ったが、その後は兵糧が続かず、兵卒は飢えと疫病に苦しみ、再び重い取り立てが行われた。粤嶲の蛮夷の任貴も太守の枚根を殺し、自ら邛榖王と称した。
光武建武元年(25年)
- 公孫述が帝を称し、粤嶲の任貴は大尹を殺して城ごと公孫述に降った。
- 益州太守の文齊と牂柯功曹の謝暹が貢を奉じた。
- 文齊は廣漢の人で益州太守となり、貯水池を造って灌漑を通し、二千余頃を開墾し、蛮夷を降し集めてよく和合させた。公孫述が成都を拠点にすると、文齊は険阻に拠って固守した。公孫述は妻子を拘束して封侯を約したが、文齊はついに降らず、光武の即位を聞くと間道から使者を送って自ら通じた。
- 三蜀の大姓である龍・傅・尹・董の諸氏は、功曹の謝暹とともに牂柯郡を保ち、光武が河北にいると聞いて番禺江から使者を出し、漢朝に貢を奉じた。世祖はこれを嘉して「義郎」と号した。
- 蜀が平定されると文齊は召されて鎮遠將軍となり、成義侯に封じられた。帝はその義を特に褒めたが、途上で没したので、詔して祠堂を建てさせ、郡人も廟を立てて祀った。
建武十四年(38年)
- 邛榖王の任貴を越嶲太守とした。
建武十九年(43年)
- 西南夷の棟蠶が反したので、詔して劉尚に討たせた。劉尚は任貴を誅し、棟蠶らとも連戦してこれを破った。
- 夷の渠帥である棟蠶が、姑復・楪榆・梇棟・連然・滇池・建怜・昆明の諸種と結んで反し、長吏を殺した。益州太守の繁勝は戦って敗れ、朱提に退いて守った。
- そこで劉尚らを遣わし、廣漢・犍為・蜀郡の人と朱提の夷、合わせて一万三千人を発した。劉尚の軍は瀘水を渡って益州の境に入り、棟蠶らと数か月にわたって連戦してこれを破り、不韋まで追撃して棟蠶を斬った。
- 邛榖王の任貴は、劉尚が南方を平定すれば自分が勝手に振る舞えなくなると恐れ、劉尚を襲おうとした。劉尚はその企てを察知し、兵を分けて先に邛都を押さえ、任貴を不意打ちにして誅した。劉尚は捕虜と馬・牛・羊を多数獲た。
- 姑復・楪榆・梇棟は雲南郡、連然・滇池・建伶・昆明は建寧郡に属す。朱提郡は廃された曲州、今の敘州宜賓縣に境を接する。建寧郡の治所は味で、僰鄢縣があって敘州宣化縣に接する。その他は後の注に見える。『華陽國志』によれば、不韋は永昌郡の治所で古の哀牢國、建寧の極西南にあたる。
建武二十七年(51年)
- 哀牢夷の酋長が越嶲太守の鄭鴻のもとへ来て降ったので、賢栗らを君長に封じた。
- 牢山の夷は渓谷の絶域に散在し、これまで中国と交渉がなかった。建武二十三年、その王の賢栗が兵を箄船に乗せて南下し、江漢の地で塞に付いた夷の鹿茤を撃った。鹿茤王が戦って賢栗の兄弟六人を殺し、共に埋めたところ、夜に虎がその屍を食ったので、残る衆は驚き恐れて引き揚げた。
- 賢栗は恐れて言った。我らが辺塞を侵すのは昔からのことだが、今回鹿茤を攻めてたちまち天誅を受けた。中国には聖人がおられるのか、天がこれほど明らかに助けるとは、と。そこで一族を率いて越嶲太守のもとへ朝貢を願い出、以後は毎年朝貢するようになった。
明帝永平元年(58年)
- 姑復の夷が再び叛いたので、益州刺史が兵を発して討ち破り、首を京師に送った。
- 太守の張翕は安漢の人で、政治は清く公平で夷人とよく和した。在任十七年で没し、蘇祈の長老二百人が喪に付き添って本県の安漢まで送り、墳を築いて祭った。詔してその美徳を嘉し、祠堂を建てさせた。
- 蘇祈は蘇示とも書き、字のとおり読む。越嶲郡に属す。安漢は今の果州。
永平十二年(69年)
- 哀牢が内附したので、その地に愽南・哀牢の二県を置き、初めて永昌郡を設けた。
- 哀牢王の柳貌が内附した。戸数五万、西は洛陽から七千里。益州郡西部都尉の管する六県を割いて合わせ、永昌郡とした。
- 初めて慱南山への道が通じ、蘭倉水を渡ることになったが、行く者は苦しんで「漢の徳は広く、服さぬ地にも及ぶ。慱南を渡り、蘭津を越え、蘭倉を渡って他人のために働く」と歌った。
- 廣漢の鄭純を太守としたが、ひとり清廉を尊び、毫毛ほどの不正も犯さなかったので、夷も漢人も歌って称え、帝もこれを嘉した。
- 『古今注』に、益州西部都尉は嶲唐に居るという。『續漢志』の六県とは不韋・嶲唐・北蘇・楪榆・邪龍・雲南である。『華陽國志』では慱南山は高さ三十里で蘭倉水に臨む。哀牢は寧州の極西南にあり、閩濮・鳩獠・僳・越・躶濮・身毒の民がおり、不韋縣を治所とする。寧州の治所の味は朱提に接し、今の敘州の外にある。味は昧と読む。
永平十七年(74年)
- 白狼夷が臣を称して貢を奉り、詩歌を作って漢の徳を讃えたので、益州刺史の朱輔が翻訳して奏上した。
- 朱輔は功名を立てるのを好み、在任数年で漢の徳を宣示し、遠方の夷を威と恩で懐けた。汶山より西、前代には到達せず正朔も及ばなかった白狼・槃木・唐菆など百余国、戸数三十余万、人口六百万以上が、種族を挙げて貢を奉り臣僕を称した。
- 朱輔は上疏して、白狼王の唐菆らが徳を慕って帰順し詩三章を作ったこと、その道筋は邛徠の大山や零髙坂を経て、峻険なることが岐道の百倍であることを述べ、その歌詞を翻訳して犍為郡掾に護送させ、楽詩とともに献上した。
- 当時、辺郡の官吏はみな装飾を施し、山神・海霊や珍奇な禽獣を描いて誇示したので、夷人はいよいよ畏れ憚った。
- 白狼は邛・筰の外にある。『華陽國志』によれば、邛徠山はもと邛筰といい、邛人と筰人の境。岩壁が険しく曲がりくねって山上に至り、水は夏でも凍り、冬は極寒である。零髙坂は靈關道のこと。『寰宇記』ではいずれも雅州蘆山縣にあるとする。
章帝建初元年(76年)
- 哀牢夷が守令を殺して反し、愽南を攻めた。永昌・越嶲・益州の三郡の兵を発し、あわせて昆明夷らを動かして愽南で撃破し、これを斬った。
- 哀牢王の類牢らが守令を殺し、越嶲太守の王尋を攻めたので、王尋は楪榆に逃れた。帝は越嶲・益州・永昌の夷漢九千人を発して討たせた。
- 翌年春、邪龍縣の昆明夷である鹵承らが募に応じ、一族を率いて諸郡の兵とともに類牢を愽南で撃って大破し斬り、首を洛陽へ送った。鹵承には帛一万疋を賜り、破虜傍邑侯に封じた。
- 楪榆はのちに雲南郡に属し、愽南は永昌郡に属す。
元和五年(88年)
- 王阜を益州太守とし、南中で初めて学校を興した。
- 王阜の統治は際立ってすぐれ、神馬四匹が滇池の河中から現れ、甘露が降り、白烏が現れたという。文学を興して次第に風俗を改めた。尹珍という者は遠く許叔重(許慎)に師事して五経を受け、帰って教授したので、ここに南方にも学問が生まれた。
和帝永元六年(94年)
- 敦忍乙王の莫延が徳義を慕って使者を遣わし、犀牛と大象を献じた。
- 漢の史書の哀牢夷伝による。
永元九年(97年)
- 辺境の外の蛮および撣國王の雍由調が、重ねて通訳を介して入貢した。
- 金印紫綬を賜り、小君長にもみな金印綬と銭帛を賜った。これも哀牢夷伝に付されている。
永元十二年(100年)
- 旄牛の外の白狼・樓薄王の唐繒らが内附した。
- 詔して金印紫綬を賜り、小豪にも銭帛をそれぞれ差をつけて賜った。筰都夷伝に付されている。旄牛は今の黎州通望縣の地。
安帝永初元年(107年)
- 辺境の外の僬僥種の夷、陸類らが内附した。
- 象牙・水牛・封牛を献じた。
元初元年(114年)
- 蜀郡の三襄種の夷が蠶陵城を攻め、縣令を殺した。
- 蠶陵はもと冀州、今の茂州の域。
元初二年(115年)
- 青衣道の夷の邑長である令田が、国を挙げて内附した。
- 令田は辺境外の三種、三十一万口とともに、黄金と旄牛の毦を持参して土地ごと内属した。安帝は令田の爵を進めて奉通邑君とした。
- 毦とは毛を結んで飾りとしたもの。餌と読む。
元初三年(116年)
- 越巂の外の夷、大羊など八種、戸数三万一千、口十六万七千六百二十が、徳義を慕って内属した。
元初四年(117年)
- 越嶲の夷が反し、遂久の令を殺した。
- 漢史の注に、遂久の故県は今の靡州の域にあり、雲南郡に属し、唐の盤州にあたるという。
元初五年(118年)
- 永昌・益州・蜀郡の夷が叛いて越嶲の夷に呼応したので、詔して益州刺史の張喬に討ち平らげさせた。
- 三郡の夷が叛いて封離に応じ、衆は十余万に達し、二十余県を破壊して長吏を殺し、百姓を焼き掠めたので、遺骨が積み重なり千里にわたって人影がなくなった。
- 詔を受けた張喬は從事の楊竦に兵を率いさせて楪榆まで進ませ、まず詔書を三郡に示してから封離と戦い、大破した。斬首三万余級、捕虜千五百人、資財四千余万を獲て、すべて軍士に賞として分け与えた。
- 封離らは恐れて楊竦のもとへ降伏を乞い、楊竦は手厚くねぎらって受け入れた。残る三十六種もみな降って付き従った。
- 楊竦はさらに、姦計をもって蛮夷を侵害した長吏九十人を奏上し、いずれも死一等を減じさせた。州で功を論じて上申する前に、楊竦は負傷が元で病没した。張喬は深く痛惜し、石に銘を刻み、その像を描かせた。
- 天子は張翕に遺愛があるとして、その子の張湍を太守に任じた。楊竦は成都の人である。
永寧元年(120年)
- 撣國王が再び使者を遣わして入貢した。
- 撣國の雍由調は楽と、変化や火吐きの術を使う幻人を献じた。幻人は自ら「海西の人」と名乗ったが、海西とは大秦のこと。撣國は西で大秦に通じていた。
- 翌年の元会の際、安帝は庭でその楽を奏させ、雍由調を漢大都尉に封じた。
延光二年(123年)
- 旄牛の夷が反して零關を攻めたので、張喬が撃破した。
- そこで蜀郡屬國都尉を分置し、四県を太守なみに管轄させた。旄牛は今の黎州に属し、零關は今の雅州にある。
桓帝建和二年(148年)
- 白馬羌が廣漢屬國を侵して長吏を殺したので、益州刺史が板楯蠻を率いて討ち破った。
- 秦の時、白虎の害があり、夷の朐忍らがこれを射たので板楯蠻と号したという。
延熹二年(159年)
- 蜀郡の三襄の夷が蠶陵を侵した。
- 蠶陵は唐の翼州衛山・翼水の両県、古の松州と悉州の間にあり、茂州と境を接し、西羌に近い。
延熹四年(161年)
- 犍為屬國の夷が郡境を侵したので、益州刺史の山昱が撃破した。
靈帝熹平五年(176年)
- 諸夷が反して益州太守の雍陟を捕らえたので、詔して李顒を益州太守とし、討ち平らげさせた。
- 諸夷が雍陟を捕らえたので、御史中丞の朱龜に并州・涼州の精兵を率いさせて討たせたが勝てなかった。
- 朝議では、この郡は辺外にあって蛮夷は叛きやすく、遠征で軍を疲れさせるより棄てたほうがよいという意見が出た。太尉掾で巴郡出身の李顒が討伐策を建言したので、李顒を益州太守とし、刺史の龎芝とともに板楯蠻を発して撃破・平定し、雍陟を取り戻した。
- 李顒が没すると夷人は再び叛いたので、廣漢の景毅を太守として討ち定めた。景毅の着任時には米一斛が一万銭だったが、次第に仁恩を施したので、数年のうちに米価は数十銭にまで下がったという。
獻帝建安十九年(214年)
- 昭烈帝(劉備)が成都を平定し、鄧方を庲降都督とした。
- 昭烈帝は安遠將軍の鄧方を朱提太守・庲降都督とした。鄧方は財に淡白で果断だったので、夷も漢人もその威信を敬った。
蜀漢昭烈帝章武元年(221年)
- 李恢を庲降都督とした。
- 鄧方が没したので、昭烈帝は後任を治中從事で建寧出身の李恢に諮った。李恢は、先零の役で趙充国が「老臣に及ぶ者はない」と言った故事を引いて自薦したので、李恢を都督とし、平夷縣を治所とした。
- 『寰宇記』は平夷を興古郡とする。『華陽國志』によれば建寧郡の治所は味で、もとの庲降都督の屯所。味は唐では郎州にあたり朱提に接し、今は敘州の外にある。
後主建興元年(223年)
- 益州郡の耆帥である雍闓らが四郡を挙げて叛いた。
- 益州郡の耆帥の雍闓は、昭烈帝の崩御を聞いて太守の正昻を殺した。代わって張裔が太守となったが、雍闓は鬼神の託宣にかこつけ「張裔府君は瓠壺のようなもので、外は艶やかだが中身は粗い。殺すには及ばぬ、縛って呉へ送れ」と言い、張裔を捕らえて呉へ送った。呉王孫権はそこで雍闓を永昌太守に任じた。
- 永昌功曹の呂凱と府丞の王伉は吏士を率いて境を閉ざして拒み守ったので、雍闓は進めず、永昌へ檄を移して自説を述べ立てた。
- 呂凱は檄文で答えた。天が乱を降し姦雄が隙に乗じ、天下は歯噛みし万国は悲嘆している。身分の上下を問わず誰もが力を尽くし肝脳を地に塗らんとして国難を除こうと願っている。将軍は代々漢の恩を受けてきたのだから、自ら党衆を集めて率先して立ち、上は国家に報い、下は先人に背かず、功を竹帛に記して千載に名を残すべきなのに、なぜ呉越に臣従し、本を捨てて末に就くのか。
- さらに続けて、昔、舜は民事に勤めて蒼梧に没し、書籍はこれを嘉して声名は尽きない、江浦に崩じたことのどこが悲しむに足ろうか。文王・武王が命を受け成王の代に平定された。先帝は龍のごとく興り、海内は風を望んで従い、宰臣は生まれつき聡明で天から安寧を降している。しかるに将軍は盛衰の道理も成敗のしるしも見ようとしない。それは野原の火を踏み、河の氷の上を歩くようなもので、火が消え氷が解ければ何に頼るのか、と難じた。
- また、かつて将軍の先祖である雍侯は怨みを買いながらも封じられ、竇融は興る側を見抜いて志を帰した。いずれも世祖のもとで後世に名を残し、その美徳が歌い継がれている。今、諸葛丞相は英才が抜きん出て未然を深く見通し、遺詔を受けて孤を託され、中興を輔佐している。人を疑わず功を記録して瑕を忘れる人物だ。将軍が翻然と考えを改めて歩みを変えるなら、古人にも追いつけないほどの道が開ける。この辺鄙な土地など治めるに値しようか、と説いた。
- さらに、楚国が貢を怠れば齊桓公に責められ、夫差が僭号すれば晉人はこれを長としなかったと聞く。まして正統でない主に臣従して、誰が帰服しようか。古の道義では臣は境を越えて交わらない。ゆえにこれまで来訪はあっても返礼はしなかった。重ねての告示を受け、憤りに食事も忘れたので、思うところを略述した、と結んだ。
- 雍闓は聞き入れなかった。都護の李嚴も書を送って諭したが、雍闓は「天に二日なく地に二王なし。今は天下が鼎立して正朔が三つある。だから遠方の者は惑って帰すべき先が分からないのだ」と答えた。その傲慢さはこの通りであった。
- 雍闓は郡人の孟獲に諸夷を扇動させ、諸夷はみな従った。牂柯太守の朱褒、越嶲夷王の高定もみな叛いて雍闓に呼応した。
- 諸葛亮は大喪の直後であることから、慰撫にとどめて討たず、農事に努めて穀を蓄え、関を閉ざして民を休ませ、民が安んじ食糧が足りてから用いることとした。
建興三年(225年)
- 丞相諸葛亮が南征し、雍闓を斬って四郡を平定した。
- 諸葛亮が衆を率いて南征する際、參軍の馬謖が説いた。南中は険阻と遠隔を頼んで長く服さない。今日破っても明日また反する。今、公は国を挙げて北伐し強敵に当たろうとしているが、相手はこちらの内が虚になったのを窺ってすぐに叛くだろう。かといって根絶やしにして後患を除くのは仁者の心情に反し、また急にできることでもない。用兵の道は心を攻めるのが上策で城を攻めるのは下策、心の戦いが上で兵の戦いは下である。どうか彼らの心を服させるだけになさいませ、と。
- 諸葛亮自身は水路から越嶲に入り、別に馬忠を牂柯へ、李恢を益州へ向かわせた。高定は定筰・卑水に出て多くの塁を築いて守った。諸葛亮は高定の軍勢が集まるのを待って一挙に討とうとした。
- 軍が卑水に至ると、高定(定元)の部曲が雍闓と士人ら数人を殺し、孟獲が雍闓に代わって王となった。諸葛亮が定元を斬った一方、馬忠は牂柯を破り、李恢は南中で敗れた。
- 夏五月、諸葛亮は瀘水を渡って益州へ進軍し、孟獲を生け捕りにして陣営を見せて回った。孟獲は「先には虚実を知らなかったから敗れた。この程度なら勝つのはたやすい」と言った。そこで七たび捕らえて七たび放った。なお諸葛亮が孟獲を帰そうとすると、孟獲は去らずに「公は天威です。南人は二度と反しません」と言った。
- こうして滇池に至り、益州・永昌・牂柯・越嶲の四郡はみな平定された。諸葛亮は現地の渠帥をそのまま登用した。これを諫める者があると、諸葛亮は三つの理由を挙げた。外部の人を留めれば兵を留めねばならず、兵を留めれば食糧がない、これが一つ。夷はいま傷つき破れて父兄を失ったばかりで、外部の人を留めて兵がなければ必ず禍になる、これが二つ。夷はたびたび官を廃し殺した罪があって自ら疑心が重く、外部の人を留めても結局信用できない、これが三つ。今は兵を留めず糧も運ばずに、大筋の秩序を定め、夷と漢がおおむね安んじればよいのだ、と。
- そこで孟獲ら豪傑をすべて登用して官属とし、その地の金銀・丹漆・耕牛・戦馬を出させて軍国の用に充てた。諸葛亮の存命中、夷は二度と反しなかった。冬、諸葛亮は漢陽から帰還した。
- 諸葛亮はまた夷のために図譜を作った。まず天地・日月・君長・城府を描き、次に神龍と牛馬羊を描き、後に部の主や吏が馬に乗り幡蓋を掲げて巡行し慰撫する様子、さらに牛を牽き酒を負い金宝を携えて訪れる様子を描いて夷に賜った。夷はこれを大変重んじた。
- また諸葛亮は誓いの碑を作り「この碑が倒れれば蛮は漢の奴となる」と記したので、蛮人は今に至るまで石でこれを支えている。
- 李膺『益州記』によれば、瀘水は曲羅に源を発して東へ三百里下り、両峰に殺気があって暑い時期には昔から通れなかった。それゆえ武侯(諸葛亮)が夏に渡ったことが難事とされる。
- 『水經注』によれば、瀘津水は東へ不韋縣の北を経て東北へ流れ、両岸はみな数百丈の高山で、盧峰が最も高く秀で、孤高三十余丈。時に瘴気があり、三月四月に通れば必ず死に、五月以後なら害は少ないという。
- 『山海經』には黒水の間に若水が出るとある。水は蜀の地を流れ、大度水が辺境の外の莋に至って若水の大流と合する。また孫水は白沙江といい臺登縣から出て邛都縣を経て若水に入る。澠水は越嶲の馬湖縣を経て馬湖江と呼ばれ、東北へ犍為に至って朱提縣の西で瀘江水となり、さらに東北へ僰道縣に至って江に入る。若水・瀘水・澠水・孫水・大度水・淹水は流れ込むままに合わさって通称され、実は別々の水が江に沿って一つの津となったもので、ほかにこれに当たる川はない。
- 樂史『寰宇記』によれば、嶲州會川縣に瀘津關があり、関の上に高さ三丈の石峰があって四季を通じて瘴気が多いという。
史論(論曰)
- 瀘水についての説が多く一致しないのはなぜか、という問題を論じる。酈道元の説は始昌・不韋縣に置き、樂史の説は嶲州會川縣に置く。史実に照らせば樂史の説が正しい。
- 孫水・若水・繩水はいずれも西北の辺境外から出て邛・莋の間で合流し、その山こそ盧峰である。だから唐代に吐蕃が三瀘水に屯したのを「三瀘」と呼んだのは、この三水を指す。
- 孔明の渡瀘は越嶲から益州へ入る経路であり、益州とは滇池・連然・雲南などの県である。不韋縣は永昌郡にあって益州の極西南にあたる。三瀘が越嶲から朱提へ入るのは諸史の記すところで、益州の境を経るのは確かだが、不韋縣を経るとし、盧峰が不韋にあるとするのは誤りである。樂史が堡夆を盧としたのも選択が精密でない。
- 渡瀘そのものは些細な事だが、旧史を突き合わせて調べなければ容易には分からない。
建興三年・郡制の改編(225年)
- 益州郡を建寧郡と改め、永昌を分けて雲南郡を、牂柯を分けて興古郡を置いた。
- 李恢を建寧太守とし、安漢將軍を加え交州刺史を兼ねさせ、治所を味縣に移した。
- 丞相諸葛亮は上表して、永昌郡吏の呂凱と丞の王伉らが十余年にわたり絶域で忠を守り、雍闓・高定が東北から迫るなかで義を守って通じなかったこと、永昌の風俗がこれほど篤実であるとは思わなかったことを述べ、呂凱を雲南太守、王伉を永昌太守とした。また馬忠を牂柯太守とした。
- 建寧郡は味縣を治所とし僰鄢が属す。今の敘州宜賓の境である。雲南は古の滇王國で、唐では姚州、治所は弄棟川、すなわち漢の弄棟・蜻蛉縣の地。漢の王褒が金馬碧雞の神を求めたのもこの地。興古郡は唐の盤州、漢の平夷縣の地。平夷は北で味縣・同升麻などの地に接し、郎州はさらに曲樂州すなわち朱提縣に接し、朱提はまた今の敘州に接する。
建興十一年(233年)
- 馬忠を庲降都督とした。
- 庲降都督の張翼は法の適用が厳しく、夷帥の劉胄が叛いた。丞相諸葛亮は參軍の馬忠を張翼の後任とし、張翼を召還することにした。檄で召し出す際、張翼は速やかに罪に服すべきだと言われたが、張翼は「私は戦場に臨んでおり、後任がまだ着いていない。糧を運び穀を蓄えて賊を滅ぼす資とすべきで、罷免されるからといって公務を廃してよいものか」と答えた。
- そこで指揮を怠らず、後任が到着してから出発した。馬忠はその蓄えを利用して劉胄を破り、斬った。
延熙三年(240年)
- 越嶲太守の張嶷が越嶲郡を平定した。
- 越嶲では丞相諸葛亮が高定を討って以来、叟夷がたびたび反して太守を殺したので、その後の太守は郡に赴任できなかった。
- 張嶷が太守となると、討伐してその君長を降し、蘇祈の諸豪酋を誅殺し、城郭を修築したので蛮夷も力を尽くした。
- 定莋・臺登・卑水の三県は郡から三百余里離れ、古くから塩・鉄・漆を産したが、夷が久しく囲い込んで自ら食んでいた。張嶷は配下を率いてこれを奪い取り、長吏を置いた。
延熙十年(247年)
- 汶山の平康の夷が反したので、將軍姜維を遣わして討ち平らげさせた。
- 『寰宇記』によれば、今の維州城には姜維の故塁がある。唐の武徳七年、白狗羌が降ったので姜維の故城に維州を置いた。
晉武帝泰始七年(271年)
- 益州の地を分けて寧州を置いた。
- 武帝は益州の地が広すぎるとして、益州の建寧・興古・雲南と交州の永昌の四郡を合わせて寧州とした。
- 太康三年には寧州を廃して益州に併せ、南夷校尉を立てて統轄させ、天水の李毅を校尉として節を持たせ兵を統べて南中を鎮めさせた。夷族五十八部を統べ、都監として夷の事務を行った。
- 惠帝の太安二年に寧州を復置し、建寧より西の七県を分けて別に益州郡を立てた。
光熙元年(306年)
- 寧州の五苓夷が州城を攻め囲み、太守の李毅が没した。
- 寧州は数年続けて飢饉と疫病に見舞われ、死者は十万を数え、五苓夷が強盛となって州兵はたびたび敗れ、交州へ流入する吏民が非常に多かった。夷はついに州城を囲んだ。
- 李毅は病にかかり救援の道も絶たれたので、上疏して、寇虐を防ぎ止められず座して滅びを待つばかりだ、憐れみを垂れて大使を降されたいと述べ、自分がまだ生きていれば重罰を加えられよ、すでに死んでいれば屍を晒して罰とせよと申し出た。
- 当時は李雄が益州で乱を起こし、各地に事が多くて救援は届かず、李毅は没した。
- 李毅の娘の秀は聡明で父の風格があり、衆に推されて寧州の事を統べた。秀は戦士を励まして城に籠って固守し、城中の糧が尽きると鼠を炙り草を抜いて食べ、夷がやや油断した隙を見ては兵を出して不意打ちし、これを破った。
懐帝永嘉四年(310年)
- 寧州刺史の王遜が五苓夷を滅ぼした。
- 初め李毅が死ぬと、その子の李釗が洛陽から赴き、州人は彼を推して州事を主宰させ、使者を京師に送って刺史を求めた。朝廷は王遜を刺史とし、王遜は着任すると李釗を朱提太守に推薦して南廣に至らせた。
- 当時の寧州は内には李雄に迫られ、外には夷の侵寇があって城邑は廃墟同然だった。王遜は粗末な衣と菜食で通し、離散した者を招き集め、ねぎらって倦まなかったので、数年のうちに州境は再び安定した。法に従わない豪族を誅した。
- 五苓夷はかつて乱の首謀だったので討つ計を立てていたが、罪を問う名目がなかった。たまたま夷が夜郎の莊王の墓を暴いたので、王遜はこれを口実に討ち滅ぼし、さらに凶悪な獠や剛夷数千落を討って、威名は南方に轟いた。
- 莊王の墓とは莊蹻の墓。威王が莊蹻を遣わして夜郎を伐たせ、そのまま滇池に王となったので、滇王はその後裔である。南廣・朱提は漢では犍為郡に属し、今の敘州の外にある。
愍帝建興四年(316年)
- 夷王の冲、朱提の雷炤、建寧の爨畺らが李雄に降った。李雄は李驤を遣わして越嶲を破らせ、また寧州を伐たせたが、王遜がこれを破った。
- 犍為太守で朱提の雷炤、流民の隂貢、平樂太守の董覇が牂柯・平夷・南廣の北を破って李雄に降った。また建寧の爨畺は益州太守の李易、梁水太守の董慬とともに興古の槃南に拠って叛いた。
- 李雄は叔父の李驤を遣わして越嶲を破らせ、臺登縣を攻めさせた。王遜は督護の雲南姚岳に螗蜋縣で李驤を防がせたが、姚岳は王遜の指示に背き、李驤の軍は大敗した。姚岳が瀘水まで追撃したので、水に飛び込んで死ぬ者が千余人に及んだ。
- 螗蜋は朱提の属邑で、今の敘州の外に螗蜋山がある。瀘水とは馬湖江のこと。
晉成帝咸和二年(327年)
- 朱提太守の楊術が李雄の部将羅恒と臺登で戦い、敗れて戦死した。
- 臺登は嶲州に属し、今の黎州の外にある。
咸和八年(333年)
- 李壽が朱提を抜き、寧州刺史が李雄に降った。
- 李雄は李壽を遣わして朱提を攻めさせ、費里を先鋒としてこれを抜いた。また鎮南の任囘を遣わして木落を征し、寧州への援軍を分断した。寧州刺史の尹奉が降り、こうして南中の地を手に入れた。
- ただ牂柯の謝恕だけは李壽に用いられず、郡を保って一人晉の官であり続けた。李壽は再び攻めてこれを取った。李雄は李壽に寧州を領させ、その威は南中を鎮めた。
晉康帝建元元年(343年)
- 李壽が獠を蜀に入れて放任した。
- この件はすでに前に見えている。蜀にはもともと獠がおらず、このとき初めて山から出て、北は犍為・梓潼にまで及び、山谷に十余万落が散在して禁じきれず、百姓の大きな害となった。
- これ以後、蜀の防壁は失われ、南夷の事は追跡できなくなった。蜀の獠の害だけは唐末まで史書に見えるが、要するに採るに足らないので、これ以上は記録しない。
後周武帝天和四年(569年)
- 越嶲を平定して西寧州を置いた。
- 大將軍の鄭恪に兵を率いさせて越嶲を平定し、そのまま郡を置いた。
- 李膺『益州記』によれば、晉の永嘉に天下が分裂し李雄が蜀の地を奪って以来、荒廃は二十紀に及び、夷人が侵入し獠がその間に割り込んで公私の道が絶え、調べるすべもなかった。後魏の廢帝二年に初めて招撫し直し、民は次第に開墾を進めたので、仮に蒙山郡を立てた。
- 『十道志』によれば、魏晉以来、蛮と獠は険阻を頼んで略奪を働き、叛いたり服したりを繰り返した。後周の武帝が越嶲を征してその地を開き、そこで嚴州を立てた。「嚴敬」の意から名づけたという。隋の開皇四年に嚴州を西寧州と改めた。蒙山郡は今の雅州である。
隋文帝開皇十七年(597年)
- 史萬歳が南寧の羌を撃って平定した。
- 初め王謙が蜀で反し、梁睿が討ち平らげると、西南夷や獠はみな帰順したが、南寧州の酋師である爨震だけが遠隔を頼んで服さなかった。
- 梁睿は上疏して、南寧州は漢代の牂柯の地で戸口が多く金宝に富むこと、梁の南寧州刺史徐文盛が湘東王に召されて荊州へ赴いた後、東方の情勢が阻んで遠方を経略する余裕がなく、その間に士民の爨瓉が一方を私に占拠したこと、国家は遥かに刺史を授けたがその子の震が跡を継いで今に至り、爨震は臣としての礼を欠き貢賦も納めないことを述べ、南寧を平定するよう請うた。しかし文帝は許さなかった。
- その後、南寧の夷である爨翫が降ってきたので昆州刺史に任じたが、まもなく再び叛いた。そこで左領軍の史萬歳に衆を率いて撃たせた。
- 蜻蛉州から南中に至るまで、夷人は次々と要害に屯して拠ったが、史萬歳はことごとく撃破した。諸葛亮の紀功碑を過ぎ、西瀰河を渡って渠濫川に入り、千余里を行軍して三千余部を破ったので、諸夷は大いに恐れて使者を送って降を請い、直径一寸の明珠を献じた。そこで石に刻んで隋の徳を頌えた。
- 史萬歳は爨翫を連れて入朝することを請い、詔で許された。ところが爨翫はひそかに二心を抱き、金宝で史萬歳に賄賂したので、史萬歳は爨翫を残して帰還した。翌年、爨翫はまた反した。文帝が史萬歳を誅そうとしたので、爨翫は恐れて入朝したが、文帝はこれを誅した。
- 紀功碑は拓東城にある。西瀰河は詔の都城の下を流れる南の川で、すなわち葉榆河。渠濫川は神龍河の西にあり、すなわち滇池である。
梁毗を西寧州刺史とする
- 梁毗は刺史となって十一年に及んだ。蛮夷の酋長はみな金の多い者を豪傑とし、互いに攻め奪い合って安穏な年がなかったので、梁毗はこれを憂えた。
- のちに諸酋長が連れ立って金を梁毗に贈ったとき、梁毗は金を座の傍らに置き、それに向かって慟哭して言った。この物は飢えても食えず寒くても着られない。お前たちがこれのために滅ぼし合った数は数え切れない。今これを持って来たのは私を殺そうというのか、と。そして一つも受け取らなかった。
- これに蛮夷は感じ入って悟り、以後は互いに攻撃しなくなった。文帝はこれを聞いて善しとした。