蜀鑑周の世宗、蜀を伐ち四州を取る(周世宗伐蜀取四州)
後周の世宗が旧領回復を志し、鳳翔節度使の王景を遣わして後蜀から秦・階・成・鳳の四州を取り返した戦役。顕徳二年(955年)、王景が黄牛寨を抜くと、視察に出ていた蜀将の趙季札は逃げ帰って孟昶に斬られた。撤兵論が出るなか趙匡胤の現地報告で作戦は継続され、黄花谷・唐倉の戦いで王巒らを捕らえて蜀軍は総崩れとなり、李廷珪は青泥嶺へ退く。最後に鳳州を陥して王環を捕らえ、四州の民には蜀の雑徭を廃した。
年表(1件)
- 周世宗
- 顯徳二年955年王景が黄花谷で蜀軍を破り、秦・階・成・鳳の四州を取る
周世宗顯徳二年(955年)
- 詔により鳳翔節度使の王景が蜀征伐に遣わされた。
- 王景が黄牛寨を抜き、蜀将の趙季札は逃げ帰って蜀主孟昶に斬られた。世宗はかねて中国の版図が日々縮むのを憤り、天下平定の志を抱いていたが、そこへ秦州の民や夷人から旧領回復を勧める献策があり、これを容れた。蜀主はこれを聞いて趙季札に辺境の備えを視察させたが、季札は文武の才略を自負し、帰還すると自ら出征を願い出た。世宗が王景を散関から秦州へ向かわせ黄牛寨を抜くと、徳陽まで来ていた季札は周軍侵入を聞いて恐れ、進めずに単騎で成都へ駆け戻った。蜀主は怒ってこれを斬った。
- 王景が黄花谷で蜀軍を破り、蜀軍は総崩れとなって、秦・階・成の三州が取られた。宰相らは王景らが長らく戦果を挙げず輸送も続かないとして、しきりに撤兵を請うた。帝は我が太祖皇帝(趙匡胤)に視察させ、帰還して秦州・鳳州は取れると報告したので、帝はこれに従った。
- 蜀の李廷珪は先鋒都指揮使の李進に馬嶺寨を占拠させ、別に奇兵を斜谷から出して白澗に駐屯させ、さらに兵を分けて鳳州の北の唐倉鎮および黄花谷に出し、周軍の糧道を絶とうとした。閏月、王景は禆将の張建雄に二千を与えて黄花に向かわせ、別に千人を唐倉に進めて蜀軍の退路を扼した。蜀の染院使王巒が唐倉から出て張建雄と黄花で戦い、蜀軍は敗れて唐倉へ逃げたが、そこでも周兵に遭って再び敗れ、王巒と将士三千人が捕虜となった。馬嶺・白澗の兵も潰え、李廷珪・高彦儔らは青泥嶺へ退いて守った。蜀の雄武節度使韓継勲は秦州を捨てて成都へ逃げ帰り、斜谷の援兵も潰走した。成州・階州はともに降り、蜀の人々は震え上がった。
- 王景が鳳州を陥して取った。王景らが鳳州を囲むと、韓通が兵を分けて固鎮に城を築き蜀の援兵を絶ち、ついに鳳州を陥して節度使の王環、都監の趙崇溥ら将士五千人を捕らえた。崇溥は食を断って死んだ。詔して秦・鳳・階・成の境内と捕らえた蜀の将士に恩赦を下し、四州の民には二税の徴収以外、蜀が課していた諸種の雑徭をすべて廃止すると命じた。
史論(論曰)
- 王建も孟知祥も乱世に乗じて土地を盗み取った者で、華山・岷山の地を汚した存在にすぎず、蜀を論じる者は彼らを口にするのを恥じる。とはいえ王建は入蜀から十七年かけてようやく蜀を偽りに平定し、孟知祥は代を重ねてやっと階・成・秦・鳳の四州を襲取した。奪うのは容易ではなかったのである。
- しかし末期には、兵が戦わずして自ら崩れ、褒斜も剣閣も無人の地を行くようだった。険阻など何ら頼みにならない。『易』に「天の険は昇るべからず、地の険は山川丘陵なり、王公は険を設けて国を守る」とあるが、そこでいう「険を設ける」とは人を険とすることだ。だからこそ「国を固めるのに山谷の険をもってせず」と言い、士は長城にまさると古くから言われてきた。ちっぽけな蜀の地形など語るに足りない。