蜀鑑孟知祥、蜀を図る(孟知祥圖蜀)
西川節度使の孟知祥が、後唐の統制をかわしながら蜀に拠る地歩を固めていく過程。天成元年(926年)に牙兵・水軍あわせて二万余を編成し、趙季良の転運の職務を骨抜きにし、翌年には監軍の李厳を殺して成都の城を修築する。塩の利をめぐって董璋と争い、夔州守備の負担を退け、雲安などの塩監を西川に取り込む。長興二年(931年)には李仁罕に忠・万・夔の三州を取らせ、峡路までを掌握した。
明宗天成元年(926年)
- 孟知祥が営兵を増設した。ひそかに蜀に拠る志を抱き、倉庫を調べて鎧甲二十万領を得ると、左右牙などの兵十六営、計一万六千人を編成して牙城の内外に置いた。さらに左右飛棹の兵六営、計六千人を置いて長江沿いの諸州に分駐させ、水戦を習わせて夔州・三峡方面に備えた。
- 趙季良が三川制置転運使、李厳が西川都監とされた。かつて郭崇韜は蜀中の富民から犒賞の銭五百万緡を取り立て、昼夜責め立てたため自殺者も出た。軍への支給の残りがなお二百万緡あり、任圜が三司を統べて成都の富裕を知ると、趙季良を三川都転運使として送り込んだ。蜀の人々はいっさい渡すまいとしたが、孟知祥は「府庫の物は他人が集めたものだから送ってよい。しかし州県の租税は鎮兵を養うもので、絶対に渡せぬ」と言った。季良は倉庫の物を送り出すだけで、制置転運の職務については二度と口にできなかった。
- 安重誨は、孟知祥と東川節度使の董璋がともに険阻に拠って兵を擁し、しかも知祥が荘宗の近親の姻戚であることから、ひそかに両者を除こうと図った。李厳は自ら望んで西川監軍となった。
天成二年(927年)
- 孟知祥が李厳を殺した。
- 高季興が夔州を襲って奪った。季興は夔・忠・万の三州を属郡としたいと請い、唐主は許したが、刺史を自分で任命したいという願いは許されなかった。季興は勝手に兵を入れて夔州を占拠し、涪州も襲ったが陥せなかった。魏王李継岌が押牙の韓珙らに蜀の珍宝四十万を長江で下らせたところ、季興は彼らを殺して奪った。朝廷が詰問すると「船が沈んだ理由を知りたければ水神に尋ねるがよい」と答えた。帝は劉訓を南面招討使とし、東川節度使の董璋に蜀の兵で三峡を下らせ、湖南の兵と合わせて三方から攻めさせた。
- 趙季良が西川副使とされた。孟知祥の要請によるものである。
- 唐と蜀の兵が敗れ、荊南軍が夔・忠・万の三州を取った。
- 孟知祥が民丁二十万を動員して成都の城を修築した。
天成三年(928年)
- 孟知祥が漢州に三つの市場を置いて塩を専売にした。孟知祥はしばしば董璋と塩の利をめぐって争い、董璋が商人を誘って東川の塩を西川に売り込ませるのを憂え、漢州に三場を置いて重税を課した。年に七万緡の収入があり、商人は東川へ行かなくなった。
- 詔で西川の兵を夔州の守備に出させたが、孟知祥がその免除を請うた。毛重威が三千を率いて赴いたが、知祥は夔・忠・万の三州はすでに平定されたとして、輸送の負担を省くため守備兵の召還を上奏した。帝は許さず、重威は部下とともに騒ぎ立てて逃げ帰った。帝がその罪を問わせようとすると、知祥が願い出て赦させた。
長興元年(930年)
- 孟知祥が雲安の塩監を西川に所属させた。知祥はしばしば上表して雲安など十三の塩監を西川の管轄とし、塩の代価で寧江の駐屯兵を養いたいと請い、認められた。
長興二年(931年)
- 孟知祥の兵が忠州・万州・夔州を陥した。知祥は李仁罕を峡路招討使として水軍を率いさせ、東へ攻め進んで夔州に至った。寧江節度使の安崇阮は任地を捨て、均州・房州を経て逃げ帰った。