蜀鑑孟知祥・董璋、兵を連ねて命に抗する(孟知祥董璋連兵拒命)

後唐が蜀を平定したのち、西川の孟知祥と東川の董璋が朝廷に叛いた経緯。同光三年(925年)の両人の任命に始まり、康延孝(紹琛)の叛乱の平定、安重誨が閬州に李仁矩、遂州に夏魯奇を置いて両川を牽制したことから両者は縁組して結束し、長興元年(930年)に挙兵する。石敬瑭の討伐軍は剣門を抜いたものの剣州で趙廷隠らに阻まれ、遂州陥落と安重誨の誅殺を境に撤退。長興二年(931年)、両川は利州まで取り、董璋は謝罪を拒んで孟知祥と再び敵対する。

年表(8件)

後唐莊宗同光三年(925年)

  • 孟知祥が西川節度使、董璋が東川節度使に任じられた。
  • 蜀征伐にあたった郭崇韜は、以前に推挙してもらった恩義から孟知祥を「誠実で謀のある人物、西川の帥に適任」と出発前に上奏していた。また日頃親しかった董璋を、蜀平定後に東川節度使として推した。

康延孝(紹琛)の叛乱と平定

  • 蜀平定の戦功は紹琛が最も大きかったのに、董璋が下位から東川の帥となったため、紹琛は不満を抱いた。郭崇韜が誅されると、紹琛は董璋に「これからは誰の門で取り入るつもりか」と迫り、董璋は恐れて謝罪した。
  • 魏王李継岌が武連に至ったとき、勅使が来て董璋に朱令徳討伐の兵を委ねる旨を伝えた。任されなかった紹琛は驚愕し、そこへ董璋が挨拶もせず通り過ぎたため激怒。剣州から兵を率いて西へ引き返し、自ら西川節度使を称した。
  • 詔により任圜が討伐に向かい、董璋も二万の兵で合流。漢州で紹琛が迎え撃つと、張礪の献策で弱兵を囮に使い、紹琛は大敗して城に籠もった。漢州には城壁がなく樹木を削った柵だけだったので、任圜はこれを攻めて焼き払った。紹琛は敗れて綿竹へ逃れ、追撃されて捕らえられた。
  • 蜀中にはなお群盗が残っていたため、孟知祥は清廉な官吏を選んで州県を治めさせ、民政を刷新し、趙廷隠に兵を分けて群盗を討たせ、ことごとく誅した。

天成三年(928年)

  • 李仁矩が両川へ遣わされた。詔で西川に百万緡、東川に五十万緡の献納を命じたが、両者とも軍費不足を理由に辞退し、西川五十万緡・東川十万緡に減じて納めた。

李仁矩・夏魯奇の配置と両川の警戒

  • 李仁矩が保寧節度使、夏魯奇が武信節度使とされた。果州・閬州を割いて李仁矩の管轄としたのは安重誨の策謀である。
  • さらに綿州刺史武虔裕に兵を率いて赴任させ、夏魯奇には遂州の城壁と堀を整備させ武具を修理し兵を増して守らせた。董璋と孟知祥は大いに恐れ、もともと仲の悪かった二人は縁組を結び、力を合わせて朝廷に抗おうと謀った。

長興元年(930年)

  • 董璋が剣門に七つの砦を築いた。孟知祥は趙季良を派遣して友好を固めさせたが、季良は帰って「董璋は貪欲で残忍、勝ち気であり、いずれ必ず害となる」と報告した。
  • 孟知祥と董璋は連名で上表し、朝廷が閬中に節度使を置き綿州・遂州に兵を増したことに両川の人心が恐れていると訴えた。詔書で慰撫されたが、董璋は武虔裕を行軍司馬に兼任させると称して府庁に幽閉し、民兵を集めて閲兵し、みな断髪・入れ墨させ、さらに剣門の北に永定関を置いて烽火を連ねた。

両川の挙兵

  • 両川節度使の董璋と孟知祥が兵を連ねて叛き、董璋は閬州を攻め、孟知祥は李仁罕らを遣わして遂州を攻めさせ、侯弘実を董璋と合流させて閬州攻めに加えた。
  • 孟知祥は趙季良に諮り、まず東川が遂州・閬州を取り、そののち兵を併せて剣門を守る策を採って、董璋と同時挙兵を約した。
  • 董璋が閬州を陥として李仁矩を殺した。
  • 詔により董璋の官爵が削られ、石敬瑭が討伐に向かった。孟知祥が兼供饋使、石敬瑭が招討使、夏魯奇がその副とされた。
  • 孟知祥は李仁罕に遂州を包囲させた。夏魯奇は城に拠って固守したが、孟知祥は高敬柔に資州の義軍二万を率いさせて長い塁壁で囲ませた。魯奇が馬軍都指揮使康文通に出撃させると、文通は手勢ごと李仁罕に降った。
  • 董璋が利州を攻めたが陥せなかった。これを聞いた孟知祥は「閬中を破ったならそのまま利州を取るべきだった。あの帥は武略がなく、風を望んで逃げたはずだ。倉庫を得て漫天の険に拠れば、北軍は西へ回って武信を救えなくなる。今、董公は閬州の片隅にとどまり、剣閣まで捨てるのは策ではない」と評した。
  • 孟知祥は張武に水軍を率いさせて夔州へ向かわせた。張武が渝州に至ると刺史が降り、続いて瀘州を取り、朱偓に兵を分けて黔州・涪州方面へ進ませた。
  • 孟知祥の官爵も削られ、討伐の対象とされた。

剣門・剣州の攻防

  • 石敬瑭が剣門を襲って陥し、王弘贄らが剣州を破ったが、退いて剣門を守った。石敬瑭は大散関に入り、王弘贄らは人頭山の背後から兵を出して剣門の南に回り、東川兵三千を殺してその地を占拠した。弘贄らは剣州を破ったものの本隊が続かず、家屋を焼き、物資と兵糧を奪って剣門に引き返した。
  • 剣門陥落を聞いた孟知祥は「董公はやはり私を誤らせた」と嘆き、李肇に五千の兵を与えて「昼夜兼行で先に剣州を押さえよ。そうすれば北軍は手が出せぬ」と命じた。さらに遂州の趙廷隠に一万を率いて剣州に合流させ、李筠に四千を与えて龍州の要害を守らせた。董璋は閬州から両川の兵を率いて木馬寨に駐屯した。
  • これより先、来蘇村に駐屯していた西川牙内指揮使の龐福誠と謝鍠は、剣門陥落を聞いて「北軍が剣州まで得れば二蜀は危うい」と語り合い、千余の手勢で間道から剣州へ急行した。着いたところへ官軍一万余が北山から押し寄せ、日が暮れた。衆寡敵せず夜明けを待てば全滅と見た二人は、福誠が数百を率いて夜に北山へ登り官軍の背後で大声を上げ、謝鍠が残兵に短兵を持たせて正面から急撃した。官軍は驚愕して陣営を捨てて逃げ、剣門に籠もって十余日出てこなかった。
  • これを聞いた孟知祥は喜び、「はじめは弘贄らが剣門を陥せばそのまま剣州に拠って堅守するか、梓州へ直進するかと思った。そうなれば董公は閬州を捨てて逃げ帰り、わが軍は後援を失って遂州の囲みも解かねばならず、内外から敵を受けて両川は動揺したろう。ところが剣州を焼いて糧を東へ運び戻し、剣門で足を止めている。これで勝ちだ」と言った。
  • 王弘贄らが道を分けて文州方面へ兵を進めた。官軍は龍州を襲おうとしたが西川の潘福超らに敗れた。董璋は前陵州刺史の王暉に三千を率いさせ、李肇らと合流して剣州の南山に分屯させた。
  • 石敬瑭が剣州に進駐したが利あらず、剣門へ退いた。敬瑭は剣州の北山に陣し、趙廷隠は牙城の後山に、李肇と王暉は河橋に布陣した。敬瑭が歩兵で廷隠を攻めると、廷隠は弓の名手五百を敬瑭の退路に伏せ、武器を構えたまま待った。矛が触れ合う間合いで旗を揚げ喚声を上げて撃ちかかり、百余を斬った。敬瑭が騎兵で河橋を衝かせると李肇が強弩で射て進ませなかった。夕暮れに敬瑭が引き揚げると、廷隠は追撃して伏兵と挟み撃ちにし、これを破った。敬瑭は剣門に戻って駐屯した。
  • 詔により安重誨が蜀征伐の諸軍監督に遣わされた。石敬瑭はもともと西征に乗り気でなかったが、重誨が西へ出ると、しきりに上表して蜀は伐てると論じ、明宗もかなりそれを是とした。

長興二年(931年)

  • 孟知祥の兵が遂州を陥し、守将の夏魯奇が戦死した。魯奇の廟は遂寧府にある。
  • 安重誨が召還され、石敬瑭は兵を引いて逃げ帰り、両川の兵が追撃して利州を陥した。石敬瑭は遂州・閬州がすでに降って兵糧輸送が続かないため、陣営を焼いて北へ帰るむね陣前に告げた。孟知祥はその書状を隠して趙季良に「北軍が次第に迫っているがどうする」と問うた。季良は「綿州より先へは進めず必ず逃げます。こちらは休養十分、相手は千里の遠征で糧が尽きた。逃げぬはずがない」と答え、知祥は大笑して書状を見せた。
  • 両川の兵が敬瑭を利州まで追うと、李彦琦は城を捨てて逃げ、両川の兵が利州に入った。孟知祥は趙廷隠を昭武留後とした。
  • 両川の将吏をそれぞれの本鎮へ帰して諭させた。安重誨は讒言によって誅されており、西川進奏官の蘇愿と果州軍将の劉澄をそれぞれ本道へ帰し、「安重誨が独断で兵を起こしたが、すでに罪に伏した」と伝えさせた。孟知祥は董璋に使者を送って共に謝罪の上表をしようと持ちかけたが、董璋は「孟公は親戚が無事だが、私は一族皆殺しにされた。今さら何を謝るのか」と怒り、これ以降ふたたび敵対関係となった。
  • 孟知祥が李肇に利州を守らせた。昭武留後の趙廷隠は、興元と秦州・鳳州を取りたいと孟知祥に増兵を請うたが許されなかった。廷隠は先の剣州で李肇と功を同じくしたとして昭武の職を李肇に譲りたいと願い出、知祥はほめつつ許さなかったが、三度譲るに及んでこれを認めた。