蜀鑑後唐、蜀を取る(後唐取蜀)
後唐の荘宗が魏王の李継岌と郭崇韜を遣わして前蜀を滅ぼした戦役。李紹琛が威武城を抜いて鳳州の糧を得ると、王承捷以下の諸州が次々に降り、三泉の戦いで蜀の迎撃軍が壊滅する。安重覇は秦・隴ごと寝返り、高季興は峡路で張武に阻まれたものの夔・忠・万は降伏、李紹琛は綿江を強行渡河して漢州を占拠した。出師から蜀主王衍の降伏まで七十日、王建の挙兵から数えて三十九年で蜀は滅んだ。
年表(1件)
- 後唐莊宗
- 同光三年925年後唐軍が蜀へ攻め入り、王衍が降って前蜀が滅ぶ
後唐莊宗同光三年(925年)
- 後唐が魏王の李継岌と郭崇韜を蜀征討に遣わした。李紹琛が蜀の威武城を攻めて陥れ、郭崇韜は散関に入った。
- 李紹琛が威武城を攻めると指揮使の唐彦思らが降り、城中の糧二十万斛を得た。李紹琛は敗兵一万余をわざと逃がし、そのまま道を倍にして鳳州へ急いだ。李厳は矢文を飛ばして王承捷を諭した。李継曮は鳳翔の蓄えを出し尽くして軍を養ったが足りず、人心は不安に沈んだ。
- 郭崇韜は散関に入ると山を指して、我々は進んで功を成さなければ二度とここへは戻れぬ、いま兵糧輸送が尽きかけているから先に鳳州を取ってその糧に頼るべきだ、と言い、道を倍にして進んだ。
- 王承捷が鳳・興・文・扶の四州ごと降った。兵八千と糧四十万斛を得、王承捷を武興節度使の代行とした。
- 蜀主の王衍は東へ遊行して利州に至り、王崇勲らに兵を率いて迎え撃たせたが、李紹琛らが三泉で戦って大破した。
- 蜀主は利州に着いて威武城の敗残兵に会い、はじめて唐兵の来襲を信じ、王崇勲らを三招討として三万の兵で迎え撃たせた。だが兵はみな憤って、龍武軍の糧と恩賞は他軍の倍だ、他軍がどうして敵を防げようかと言った。李紹琛らは興州を陥れ、三泉での戦いでこれを大敗させ、さらに糧十五万斛を得た。
- 蜀主の王衍は西へ逃げ、桔柏津を断ち、王宗弼に利州を守らせた。李紹琛が利州へ迫り、魏王の李継岌は興州に至り、宋光葆をはじめ諸城鎮はみな降った。
- 蜀の武徳留後の宋光葆は梓・綿・剣・龍・普の五州、王承肇は洋・蓬・壁の三州、王崇威は梁・開・通・渠・麟の五州、階州刺史の王承岳は階州ごと降り、その他の城鎮も風になびくように服従した。
- 安重覇が秦州・隴州ごと降り、王承休は文州・扶州の方から成都へ帰った。
- 王承休と安重覇は秦・隴にあって唐軍を不意打ちしようと謀ったが、安重覇は、撃って勝てなければ大事は去る、蜀は天下の要害で唐兵が勇猛でも剣門をまっすぐ越えられはしまい、しかし公は国恩を受けた身で急を聞いて駆けつけぬわけにはいかない、ご一緒に西へ帰りたい、と言った。王承休はもっともだとした。
- 安重覇は羌人に賄賂を贈って文州・扶州の道を買い取り帰路とすることを請い、龍武軍と募兵あわせて一万二千を率いて従った。出発の際、州の人々が城外で送別したが、王承休が道に就くと安重覇は馬前に拝して、国家が力を尽くして得た秦・隴を、開府(王承休)が朝廷へ帰ってしまえば誰が守るのか、開府はお行きください、自分が留守を務めますと言った。王承休はどうしようもなく、招討副使の王宗汭とともに文・扶から西南へ回って蜀へ帰った。
- その地はみな不毛で、羌人が襲ってくるので戦いながら進み、士卒は凍え飢えた。北の茂州に着いたときには残る兵はわずか二千であった。安重覇はそのまま秦・隴を挙げて降った。
- 高季興が水軍を率いて峡をさかのぼり施州を取ったが、まもなく逃げ去り、夔・忠・万の三州は使者を魏王李継岌のもとへ送って降った。
- 唐が蜀を伐つにあたり高季興も招討使に任じられていた。高季興はかねて三峡を取りたいと思いながら、峡路招討使の張武の威名を恐れていたが、このとき唐軍の勢いに乗じて自ら水軍を率いて峡をさかのぼり、施州を取った。張武が鉄の鎖で江路を断つと、高季興は勇士を船で送って断ち切らせようとしたが、折よく大風が起こって船が鎖に絡まり進退できなくなり、矢と石が降り注いで戦艦は壊れ、高季興は小舟で逃げ去った。やがて北路が崩れたと聞き、夔・忠・万の三州は使者を魏王のもとへ送って降った。
- 李紹琛が利州に入り、桔柏の浮橋を修復した。
- 魏王の李継岌が剣州に至った。蜀の武信節度使の王宗寿が遂・合・渝・瀘・昌の五州ごと降った。
- 李紹琛が綿州に至り、馬で川を渡って鹿頭関に入り、漢州まで進んだ。綿州では倉庫も民家もすでに蜀兵に焼かれ、綿江の浮橋も断たれて渡る船がなかった。李紹琛は李厳に、孤軍で深く入った以上は速戦が利だ、蜀人が肝をつぶしている今、百騎でも鹿頭関を越えれば向こうは降伏を急ぐだろう、橋の修理を待てば数日かかり、その間に誰かが王衍に関を固く閉じて我が兵勢を挫くよう教えるかもしれない、十日も延びれば勝敗は分からなくなる、と言った。
- そこで李厳とともに馬で川を渡ったが、渡りきれた従兵はわずか千人で、六千余人が溺死した。そのまま鹿頭関に入り、漢州を占拠した。
- 王宗弼が使者を出して軍をねぎらい、あわせて降伏の意を伝えた。
- 魏王李継岌・郭崇韜・李紹琛・李厳らが成都に至り、蜀主の王衍が出て降った。
- 出師から蜀平定まで通算七十日であった。王宗弼と王承休は処刑された。荘宗は蜀を破ったと聞いて宦官の向延嗣を遣わし、蜀の帳簿を献上させた。兵三十万、馬九千五百匹、兵器七百万、糧二百五十三万石、銭百九十二万緡、金銀二十二両、珠玉犀象二万、文錦・綾羅五十万疋であった。荘宗が、蜀は天下の富国だと聞いていたのに得たものはこれだけかと言うと、向延嗣は、蜀の宝貨はみな郭崇韜の家に入りましたと述べた。
- 王建が光啟三年丁未に閬州に入ってから、唐の同光三年乙酉に蜀が滅ぶまで、通算三十九年であった。