蜀鑑孟知祥、東川を撃ち蜀の地をすべて有す(孟知祥擊東川全有蜀地)

東川の董璋が名分なき出兵を諫める王暉の言を退けて西川を襲い、漢州を陥したが、弥牟鎮から雞蹤橋にかけての決戦で趙廷隠・張公鐸らに大敗し、東川へ逃げ帰って王暉に殺される。孟知祥は梓州に入って東川を平定し、長興四年(933年)に蜀王、翌応順元年(934年)に帝を称した。山南の張虔釗と武定の孫漢韶も鎮ごと降り、孟知祥は蜀の地をすべて領有するに至る。

年表(3件)
  • 長興三年932年董璋が漢州を陥すが決戦に大敗し、王暉に殺されて東川が平定される
  • 長興四年933年孟知祥が東川節度使を兼ね、蜀王とされる
  • 閔帝
  • 應順元年934年孟知祥が帝を称し、張虔釗・孫漢韶が鎮ごと降って山南を得る

長興三年(932年)

  • 董璋が西川を襲い、漢州を陥した。董璋が諸将を集めて成都襲撃を諮ると皆が必勝を唱えたが、前陵州刺史の王暉だけは「剣南は万里の広さがあり成都は大都市。名分のない出兵は必ず失敗する」と反対した。董璋は聞き入れなかった。
  • 孟知祥は潘仁嗣に三千を与えて漢州へ偵察に出したが、董璋は境を侵して白楊林鎮を破り、赤水で潘仁嗣と戦ってこれを大敗させ捕虜とし、そのまま漢州を陥した。
  • 孟知祥は趙廷隠に三万を与えて董璋を防がせ、趙季良に成都を守らせて自ら八千を率いて漢州へ向かい、弥牟鎮に至った。趙廷隠は鎮の北に布陣し、夜明けには雞蹤橋に陣を移した。董璋は西川軍の勢いを見て退き、武侯廟の下に陣を敷いた。
  • 董璋の帳下の精兵が「日中に我らを炙って何になる、早く戦え」と騒ぎ立てたので、董璋はやむなく馬に乗った。先鋒が接触するや東川の張守進が孟知祥に降り、「董璋の兵はこれだけで後続はない、急ぎ撃つべし」と告げた。
  • 孟知祥は高い塚に登って戦を督し、毛重威と李敬塘に雞蹤橋を守らせた。趙廷隠が三たび戦って利あらず、知祥は恐れて馬鞭で後陣を指し、張公鐸が兵を率いて大喚しつつ突進した。東川軍は大敗して数千の死者を出し、親兵八十余人が捕らえられた。董璋は胸を打って「私は誰を頼ればよいのか」と嘆き、数騎とともに逃げ去った。残る七千は降伏した。孟知祥は五侯津まで董璋を追い、趙廷隠は赤水まで追撃した。
  • 董璋は東川へ帰ったが、王暉が董璋を殺して孟知祥に降った。
  • 孟知祥は梓州に入り、東川を平定した。

長興四年(933年)

  • 孟知祥が東川節度使、蜀王とされた。

閔帝應順元年(934年)

  • 孟知祥が帝を称した。
  • 唐の山南節度使張虔釗と武定節度使孫漢韶が、それぞれの鎮ごと降った。これで山南・洋川の地を得たので、李肇に五千を率いて利州に戻らせ、張業に一万を率いて大漫天に駐屯させ、彼らを迎えさせた。