蜀鑑王建、蜀に拠る(王建據蜀)
唐末、利州刺史の王建が閬州を襲って自立してから、西川の陳敬瑄・田令孜を倒し、東川の顧彦暉、彭州の楊晟を破り、さらに山南の興元・洋州、峡路の夔州までを取って蜀全土を手中にするまでを追う。光啟三年(887年)の挙兵から天復三年(903年)の夔門奪取まで通算十七年、天祐四年(907年)に帝を称するに至る。王先成の七か条の献策など、蜀の埋もれた人材をめぐる史論も収める。
年表(15件)
- 唐僖宗
- 光啟三年887年王建が周庠の策を容れて閬州を襲い、自ら防禦使を称する
- 文徳元年888年王建が永平軍節度使とされ、陳敬瑄は官爵を削奪される
- 昭宗
- 大順元年890年王建が邛州を抜き、簡・資・嘉・戎の四州と蜀州を得る
- 大順二年891年韋昭度を追い返して成都を陥れ、王建が西川留後を自称する
- 景福元年892年彭州包囲が長引き、軍士の王先成が招安七か条を献じる
- 興元・閬州の攻防李茂真が興元を取り、王建は閬州の楊守亮を撃ち破る
- 大順二年・陳敬瑄と田令孜の誅殺891年朝廷の許しを待たず王建が二人を殺す
- 乾寧元年894年彭州が陥ちて楊晟が斬られ、節を守った安師建も殺される
- 乾寧三年896年荊南の将の許存が王建に降り、宗播と改名する
- 乾寧四年897年王建が東川を攻め落とし、顧彦暉は自殺する
- 天復二年902年利州・興元・洋州・興州を取り、功臣の王宗滌を忌んで殺す
- 天復三年903年夔・忠・万・施を取って蜀王に進み、蜀の地をすべて領有する
- 天祐元年904年昭宗の急を受けて出兵するも阻まれ、以後は墨制で官を任じる
- 天祐二年905年金州を取るが馮行襲に奪い返される
- 天祐四年907年王建が帝を称する
唐僖宗光啟三年(887年)
- 利州刺史の王建が閬州を襲って占拠した。山南節度使の楊守亮は王建の驍勇を忌んでたびたび召したが、王建は恐れて行かなかった。
- 周庠が王建に説いた。唐の命運は尽きようとしており、大功を立てるのは公をおいて誰か、しかし葭萌は四方から攻められる地で長く安んじがたい、閬州は辺鄙だが民は富み、刺史の楊茂実は職貢を怠っているから、その罪を上表して兵を挙げれば一戦で擒にできる、と。
- 王建はこれに従い、渓洞の酋豪を募って八千の衆を得、嘉陵江を下って閬州を襲い、楊茂実を追って自ら防禦使を称した。軍勢はいよいよ盛んになった。
- 王建が成都を攻めたが落とせず、退いて漢州を保った。西川の陳敬瑄は、王建が東川の顧彦朗と結んで自分を図るのを恐れた。田令孜は、王建は自分の養子だから短い書状一つで召し寄せ麾下に置けると言い、使者を送って召した。王建は大いに喜び、精騎を率いて鹿頭関まで来たが、陳敬瑄は後悔して人をやって止めさせた。怒った王建は関を破って進み、綿州で漢州刺史の張頊を破り、そのまま漢州を抜いて学射山へ進軍し、蚕此でも西川の将の句維立を破り、さらに徳陽を抜いた。顧彦朗は弟の顧彦暉を漢州刺史とし、兵を出して王建を助け、急ぎ成都を攻めたが三日で落とせず、退いて漢州に駐屯した。
文徳元年(888年)
- 王建が彭山を攻め、陳敬瑄が救援したので引き上げた。
- 韋昭度が西川節度使兼両川招撫使とされた。王建は陳敬瑄討伐を願い出て罪を贖いたいと表し、あわせて邛州を求めた。顧彦朗も王建の罪を赦し、陳敬瑄を他の鎮へ移して両川を鎮めるよう請うた。昭宗はもともと田令孜を憎み、藩鎮の跋扈に憤っており、顧彦朗と王建の上表を得て、田令孜が頼みとするのは陳敬瑄だけだと見て、韋昭度を西川に鎮させ、楊守亮を副とした。
- 王建は新都に駐屯し、綿竹の土豪の何義陽・安仁・費師懃らは兵を擁して自ら守っていたが、みな王建に従った。
- 王建が永平軍節度使とされ、邛州を治所とした。邛・蜀・黎・雅を割いて永平軍を置き、王建を節度使とするとともに、陳敬瑄の官爵を削奪した。
昭宗大順元年(890年)
- 王建が邛州を攻めて抜いた。簡・資・嘉・戎の四州はみな降り、さらに蜀州を取った。
大順二年(891年)
- 顧彦朗と王建に停戦の詔が下ったが、王建は韋昭度を追い出して改めて成都を攻めた。周庠が、韋公には朝廷へ帰ってもらい、単独で成都を攻めて手に入れよと勧め、王建は従った。王建がその側近の吏を切り刻んで見せると、韋昭度は大いに恐れて印と旌節を王建に渡し、その日のうちに東へ帰った。王建は剣門まで送り出すと兵で守らせ、以後は東からの軍を入れなかった。王建は急ぎ成都を攻め、城を巡る烽火台と塹壕は五十里に及んだ。
- 王建が成都を陥れ、自ら西川留後を称した。のち王建が西川節度使とされた。田令孜が印と旌節を持って王建のもとへ行き、陳敬瑄は門を開いて迎え入れた。王建は成都留後を自称し、陳敬瑄を新津に移し、県の租賦を与えて養った。
景福元年(892年)
- 王建が彭州を包囲した。陳敬瑄は将の楊晟に彭州を守らせており、王建の包囲は一年を越えても落ちず、民はみな山谷に逃げ隠れた。諸砦は日々出ては掠奪していた。
- 王先成という軍士がいた。新津の人で、もとは書生だったが乱世に兵となっていた。諸将のうち王宗侃が最も賢いと見て説いた。彭州はもともと西川の管内だが、陳敬瑄と田令孜がこれを楊晟に与えて朝命に抗させた、いま陳・田はすでに平らげられたのに楊晟がなお拠っている、州民はみな四川の大府があり司徒(王建)がその主だと知っているからこそ、大軍が来ると山谷に入って招安を待っているのに、軍士が掠奪して司徒が顧みなければ、彼らはまた楊氏を思うようになるだろう、と。
- 王宗侃は心を痛め、思わず何度も座を進めて先を問うた。王先成は言った。もっと重大なことがある、いまの諸砦は朝に出て掠奪し夕方に帰るだけで守備の構えがまるでない、城中に一人でも智者がいて門内に伏兵を置き、掠奪隊が遠ざかったところで打って出、同時に三方の城下でも兵を示せば、諸砦は自衛に手一杯で互いに救えず、敗れずに済むだろうか、と。王宗侃は驚き、その通りだ、どうすればよいかと問うた。
- 王先成は箇条書きの上申を王建に届けるよう請い、七か条を挙げた。一つ、山中の百姓を招安すること。二つ、諸砦の掠奪を禁じること。三つ、招安寨を置き、慎み深く有能な部将を選んで兵を執らせ巡衛させること。四つ、招安の事務は帖を下して王宗侃の専管とすること。五つ、捕らえた彭州の百姓をすべて探し出して営場に集め、父子兄弟夫婦が名乗り合えばただちに招安寨へ送り、隠す者は斬ること。六つ、招安寨の中に九隴の行県を置いて百姓を撫し、証書を与えて山へ入らせ親戚を招かせること。七つ、彭州の地は麻に適し、民が山に入る前に漚して蓄えたものが多いから、県令に諭させて各自田里に帰らせ、持ち出して売って資糧とさせれば、次第に生業に復するだろう、と。
- 王建はこれを得て大いに喜び、ただちに実行した。三日で民は山を出て寨へ集まること市に行くようであった。しばらくして村落に略奪がないと見ると、県令に別れを告げて元の生業に戻り、ひと月余りで招安寨は空になった。
史論(胡氏曰)
- 古人が士を取る道を広くしたのは、賢才は見分けにくく、取り漏らすのを恐れたからである。広く取れば賢才が下に埋もれず上にそろい、下はその恩恵を受けて乱の起こる源がなくなる。
- 王先成は一介の走卒にすぎないが、王建は彼を得て兵を用いずに一州を降した。とすれば塵土や草莽に埋もれた人材は数えきれまい。表に出して用い、その長所を存分に発揮させるべきなのに、王建にはそれができなかった。その成し遂げたものが狭く劣ったのも当然である。
史論(論曰)
- かつて呂汲公(呂大防)が『華陽国志』に序して、前漢から晋初までの四百余年で書き記すべき士女は四百人にのぼり多いといえるが、晋初から周の顕徳まで七百年近くの間に史書が記す人はいくらもなく、忠魂義骨が塵や陽炎とともに丘原に埋もれた者は多い、と述べた。
- 邛州の一孔目官の唐渓、彭州の一軍士の王先成を、致堂胡氏(胡寅)がこれほど念入りに取り上げて世に出そうとしているのを見ると、蜀の文才が長く埋もれてきたことは呂汲公の言うとおりで、まことに惜しい。
興元・閬州の攻防
- 鳳翔節度使の李茂真が興元を取り、楊守亮は閬州へ逃げた。宦官の楊復恭が興元へ走り、山南節度使の楊守亮とともに王命に抗したので、李茂真が討って興元を取り、楊守亮らは閬州へ逃げた。李茂真は子の李継密を興元府事に任じるよう上表し、漢中の地を手中にした。
- 王建が兵を送って閬州の楊守亮を撃ち、破った。
大順二年(891年)・陳敬瑄と田令孜の誅殺
- 王建が陳敬瑄と田令孜を殺した。王建は朝廷に願い出たが許されず、そのまま殺した。
乾寧元年(894年)
- 王建が彭州を陥れ、楊晟を殺した。王建が彭州を陥れても楊晟はなお衆を率いて力戦したが、刀子都虞侯の王茂権が斬った。その馬歩使の安師建を捕らえ、王建は将にしようとしたが、安師建は泣いて謝し、楊司徒と生死をともにすると誓った身で二君に仕えるに忍びないと言い、再三諭しても従わなかったので殺し、礼をもって葬って祭った。
乾寧三年(896年)
- 荊南の将の許存が王建に降り、宗播と改名した。荊南節度使の成汭は許存を長江をさかのぼらせて土地を切り取らせ、万州刺史としていたが、許存はそのまま王建に降った。
乾寧四年(897年)
- 王建が王宗侃に渝州を、王宗阮に瀘州を攻めさせ、いずれも取った。王宗侃は渝州を取って刺史の牟宗厚を降し、王宗阮は瀘州を抜いて刺史の馬敬儒を斬り、峡路が通じた。
- 王建が華洪を東川攻めに遣わし、王宗謹が玄武で鳳翔の将の李継徽らを破った。顧彦暉は兄の顧彦朗に代わって節度使となっていた。かつて楊守亮に攻められて王建に救援を求め、王建は華洪を送って救わせたが、そのついでに顧彦暉を捕らえようとした。顧彦暉はその企みを察していた。彭州が平定されたのを機に、王建は東川攻めを謀った。
- 鳳翔の将の李継昭が東川を救援し、偏将を残して剣門を守らせたが、王宗播が撃って擒にした。
- 王建が自ら軍を率いて東川を攻め落とし、顧彦暉は自殺した。王建は張琳に成都を守らせ、華洪の姓名を王崇滌と改めさせた。朝廷は使者を送って両川を和解させようとし、張杷塞で王建に会ったが、王建は旗を執る者を指して、戦士の意気は奪えないと答えた。王建は顧彦暉と五十余度戦い、ついに梓州を包囲し、蜀州刺史の周徳権の策を用いて使者を送り、外に救援はないと告げた。顧彦暉の勢いはいよいよ孤立し、知遂州の侯紹、知合州の王仁威、鳳翔の将の李継溥はみな援兵ごと王建に降った。王建の攻撃が急になると顧彦暉は自殺したが、城中にはなお七万の兵がいた。王建は王宗綰に兵を分けて昌州・普州などを従わせ、王宗滌を東川留後とした。
史論(論曰)
- 王建は盗賊の素質をもって、陳敬瑄・田令孜という器量の小さい簒奪者の時勢に乗じ、王命を借りて元帥を追い出した。楊晟と顧彦暉だけがその鋒先に立ち向かって死をもって抗した。
- とはいえ楊晟は陳敬瑄の一党であり、顧彦暉もまた王建と同じことをしようとしていたので、本当に唐に忠であったわけではない。小さな蜀を舞台に数年の連戦で血を踏み、ようやく定まった。その禍は惨たるものであった。二州の人が彼らを祀っているのも、おかしなことではないか。
天復二年(902年)
- 王建が利州を取った。西川の兵が利州に至ると、李継忠は鎮を捨てて鳳翔へ逃げ、王建は王宗偉に守らせた。
- 王建が興元を取った。西川軍が興元に至ると、李継密は三泉に守備を置いて防いだが、王宗播が金牛・黒水・西県・褒城の西寨を破り、王宗綰が馬盤寨を破った。李継密は敗れて漢中へ逃げ帰り、西川軍は勝ちに乗じて城下に至った。王宗滌が衆を率いて先登し、ついに陥れた。李継密は降伏を請い、成都へ移された。兵三万・騎五千を得て、詔により王宗滌が興元を鎮めた。王宗滌は勇略があって人望を得たので、王建はこれを忌んで殺し、王宗賀を興元留後の代理とした。
- 王建が洋州と興州を取った。李思敬が洋州ごと王建に降り、王建は興州を攻め抜いて王宗浩を興州刺史とした。
天復三年(903年)
- 王建が兵を出して秦州・隴州を攻め、判官の韋荘を朝廷へ遣わして貢を納めた。
- 王建は朱全忠とも修好し、朱全忠は押牙の王殷を答礼に送った。王殷が、蜀は甲兵こそ多いが馬が足りないと言うと、王建は色をなして、当道は山川が険阻で騎兵の使いどころがないが、馬とて不足はしていないと答え、諸州の馬を集めて星宿山で大閲兵した。官馬八千・私馬四千、部隊は整然としており、王殷は嘆服した。王建はもともと騎将だったので、蜀を得てから文・維・黎・茂の各州で辺境の馬を買い入れ、十年でこの数に達したのである。
- 王建の爵位が蜀王に進められた。
- 王建が夔・忠・万・施の四州を取り、夔州に軍を置いた。王宗本の兵が夔州に至ると、刺史の侯矩は城ごと降り、王宗本はそのまま四州を平定した。王建は改めて侯矩を夔州刺史とし、姓名を王宗矩と改めさせた。蜀の議論する者たちは瞿唐が蜀の要害だとしたので、帰州・峡州を放棄して夔州に軍を屯した。
- 王建は光啟三年丁未に閬州を占拠して反いてから天復三年癸亥まで、通算十七年かけて夔門を取り、蜀の地をすべて手中にした。
天祐元年(904年)
- 王建が兵を送って車駕を迎えようとした。朱全忠が昭宗を脅して洛陽へ移したので、昭宗は密使をやって御札で王建に急を告げた。王建は王宗祐に兵を率いさせ鳳翔と合流させたが、興平で汴の兵に遭って進めなかった。王建はこのときから墨制(自前の辞令)で官を任じるようになった。
- 五月、趙匡凝が夔州を攻めたが落とせなかった。趙匡凝は荊南に鎮し、水軍を峡へ上らせて夔州を攻めたが、知渝州の王宗阮が撃ち破った。万州刺史の張武は鉄の綱を作って江の中流を遮り、両端に柵を立てた。これを鎖峡と呼んだ。
- 王建が鳳翔の李茂貞と和を結び、兵を合わせて朱全忠を討った。馮涓が王建に説いた。梁と唐(李克用)は虎のように争い両立しない、もし一つにまとまって蜀へ兵を挙げれば、諸葛孔明が生き返っても敵しがたい、鳳翔は蜀の垣根だから和親するのがよい、事なきときは農を務め兵を訓練し、事あるときは隙を見て動けば万全である、と。王建はよしとして李茂貞と修好した。
天祐二年(905年)
- 王建が金州を取ったが、馮行襲がこれを奪い返した。馮行襲は金州が荒廃したので治所を均州に移したいと奏し、許された。数年後、桑弘志がまたこれを陥れた。
天祐四年(907年)
- 王建が帝を称した。