蜀鑑唐の僖宗、蜀に幸する(唐僖宗幸蜀)
廣明元年(880年)に黄巣が長安に入り、田令孜に奉じられた僖宗が興元を経て成都へ逃れてから、光啟元年(885年)に京師へ帰るまでの三年間。滞在中に黄頭軍の郭琪、邛州の阡能、涪州の韓秀昇、東川の楊師立と叛乱が相次いだが、高仁厚が降を諭してほとんど殺さずに阡能らを平らげ、東川節度使となった。鄭畋の檄が天下の兵を動かす一方、田令孜は孟昭図を沈め、陳敬瑄は疑って高仁厚を殺す。
唐僖宗廣明元年(880年)
- 黄巣が長安に入り、僖宗は興元へ逃れた。黄巣が長安に迫って入城すると、田令孜が神策軍五百を率いて僖宗を奉じ、金光門から脱出した。従ったのは福・穆・沢・寿の四王と妃嬪数人だけで、百官は誰もこれを知らなかった。
- 夕刻に賊の先鋒が長安に入り、金吾将軍の張直方が文武数十人を率いて覇上で出迎えた。
- 僖宗は駱谷へ向かった。鳳翔節度使の鄭畋が道中で拝謁し、鳳翔にとどまるよう請うたが、僖宗は大敵のすぐそばにはいたくない、ひとまず興元へ行き兵を徴して回復を図る、卿は近隣諸道をまとめて大功を立てよ、と答えた。
- 僖宗は壻水に至って陳敬瑄に詔し、京城を守りきれず興元へ向かうこと、賊勢がなお盛んなら成都へ行くのであらかじめ備えを整えよと伝えた。
- 僖宗は興元に至り、諸道に出兵して京師を回復するよう詔した。
中和元年(881年)
- 春正月、僖宗は興元を発って成都に至った。陳敬瑄が鹿頭関で出迎え、綿州では東川節度使の楊師立が拝謁した。鄭畋は子の凝績を行在に遣わし、凝績は漢州で車駕に追いついた。車駕は成都に着き、府の館舎に入った。
- 鄭畋が檄を天下に伝え、兵を合わせて賊を討とうと呼びかけた。当時、天子が蜀にあって詔令が通じず、天下は朝廷はもう立ち直れまいと見ていたが、鄭畋の檄が届くと争って兵を出して応じた。
- 西川で黄頭軍が反乱を起こし、討ち平らげられた。黄頭軍使の郭琪が配下を率いて乱を起こしたので諸軍に討たせたところ、郭琪は夜に囲みを破って広陵へ逃げた。
- 左拾遺の孟昭図が殺された。田令孜が権勢をふるうなか、孟昭図は、天下は高祖・太宗の天下であって北司(宦官)の天下ではなく、天子も四海九州の天子であって北司の天子ではない、北司が必ず信じられるわけでも、南司(朝官)が無用なわけでもない、と上言した。田令孜は上疏を握りつぶして奏上せず、詔を偽って孟昭図を嘉州司戸に貶し、人をやって蟇頥津に沈めた。聞く者はみな息を詰まらせたが、あえて口にする者はいなかった。
中和二年(882年)
- 邛州の牙官の阡能が乱を起こし、押牙の高仁厚が討ち平らげた。
- 発端はこうである。陳敬瑄は西川に鎮して、しきりに人を県や鎮へ遣わして探索させ「尋事」と称し、多くを強請り取っていた。二人が資陽鎮を通ったときだけ何も求めなかったので、鎮将の謝弘譲は招いても来ないのを見て自分に罪があるのかと疑い、夜に逃げて盗賊の群れに入った。実際には無罪であった。捕盗使の楊遷は功を求めて彼を誘い出して捕らえ、陳敬瑄は取り調べもせず、西城で釘付けにして煮えた油を浴びせ、極めて残酷に殺した。
- 邛州の牙官の阡能は公務の期限に遅れて逃亡し、楊遷がまた誘い出した。阡能は自首しようとしたが、謝弘譲の冤罪を聞いて憤り盗賊となった。ひと月余りで衆は一万に達し、州県では抑えられなかった。
- 陳敬瑄は楊行遷に数千の兵を与えて討たせたが、官軍は戦いに利あらず、罪を恐れて多くの村民を捕らえて捕虜とし、一日に数十百人にのぼった。陳敬瑄はこれも調べずにことごとく斬った。その中には老人や女子供もおり、問えばみな、田を耕し麻を績んでいたところへ官軍が突然村に入って縛られてきた、何の罪かも分からないと答えた。
- 蜀人の羅渾擎・句胡僧・羅夫子・韓求もみな衆を集めて阡能に呼応した。阡能が蜀州の境に入ったので、陳敬瑄は押牙の高仁厚を都招討指揮使として討たせた。
- 出発の前日、高仁厚は阡能の間諜を捕らえたが、穏やかに問うと、みな自分は村民で、阡能に父母妻子を人質に取られ、探索して実を得れば家族を助ける、さもなくば皆殺しだと言われた、望んでのことではないと答えた。高仁厚は、それならお前たちを殺すに忍びない、帰って阡能に「高尚書は明日出発するが率いる兵は五百だけで多くはない」と伝えよ、そのかわり自分がお前の一家を助けたのだから、砦の中の者へひそかにこう伝えよ、と言った。すなわち、僕射(陳敬瑄)はお前たちが本来良民で賊に脅されているのを憐れみ、尚書に助けを求めさせた、武器を捨てて降れば背に「帰順」と書いて元の生業に戻してやる、誅すべきは阡能ら五人だけだ、と。間諜は、それこそ百姓の願うところで、尚書がすべて分かって赦してくださるなら従わない者はおりませんと言い、送り返された。
- 翌日、高仁厚は兵を率いて出発し、双流に至って柵の造りを見回すと、これほど幾重にも堅く囲っていては安眠飽食して賊を養い功を狙うようなものだと怒り、担当者を斬ろうとした。監軍が力を尽くしてとりなし、辛うじて免れた。高仁厚は柵をすべて取り払わせた。
- 賊は野橋箐に千人の伏兵を置いて官軍を待ち伏せたが、高仁厚は察知して兵で包囲し、殺すなと命じ、戎服を脱いだ使者を賊中に入れて諭させた。賊は大いに喜び、争って甲兵を捨てて降伏を請うた。高仁厚はみな慰撫して背に文字を書き、砦へ帰らせると、残りの者も争って出て降った。羅渾擎は逃げたが、その部下が捕らえて連れてきた。
- 高仁厚は降者に、すぐに帰してやりたいが他の砦はまだ自分の心を知らず疑っているだろうから、先導役を務めてほしいと言い、諸砦を通るたびに背の文字を見せて説き諭させた。羅渾擎の旗を逆さに縛り、五十人ごとに一本ずつ持たせて先を走らせ、「羅渾擎はすでに捕らえられた、大軍が来る、早く我々のように出て降れば良民になれる」と呼ばわらせた。
- 穿口・新津・延貢の砦ではみな争って出て降り、句胡僧を捕らえ、韓求を斬った。羅夫子は阡能の砦へ逃げ込んで総力決戦を謀ったが、決しないうちに旗を持った先駆けの者が到着した。阡能が出撃しようとしても兵はみな応じず、翌朝には諸砦が喚声を上げて争って出て、羅夫子は自ら首を刎ね、衆はその首を提げ、阡能を縛って官軍を迎えた。彼らは高仁厚を見ると馬首にすがって大声で泣き、拝して言った。百姓は長く冤罪を負いながら訴える先もなかった、間諜が戻ってから首を伸ばして待つ一刻が一年のようだった、いま尚書に会えたのは九泉から出て白日を見るようで、死んで生き返った心地だ、と。
- 他所にある賊の砦へは諸将を分遣して降らせ、高仁厚は出軍からわずか六日で五人の賊をことごとく平らげた。陳敬瑄は二つの首を市に梟し、阡能・羅渾擎・句胡僧を釘付けにして切り刻んだ。阡能の孔目官の張栄は、たびたび進士を受けて及第せず、阡能に身を寄せて謀主となっていた者で、高仁厚が府に送り、馬市で釘付けにされた。それ以外は一人も殺されなかった。
- 陳敬瑄は邛州に高札を出して賊党をみな赦し不問とした。まもなく邛州刺史が、阡能の叔父の行全一家を捕らえたので法の通り処断したいと申し出た。陳敬瑄がこれを孔目官の唐渓に諮ると、唐渓は、公はすでに不問と掲示したのに刺史がまた捕らえたのには必ず訳がある、いま殺せば明公が大信を失い、阡能の残党がまた続々と起こりかねないと答えた。陳敬瑄が従って理由を調べると、果たして行全に良田があり、刺史が買おうとして断られたので陥れたのだった。陳敬瑄は刺史を召して裁こうとしたが、刺史は憂えて死んだ。後日、行全がひそかに唐渓へ金百両を贈ると、唐渓は怒り、これは太師の仁明によることで自分には関わりない、禍を抱いて贈り物をするのかと言い、金を返して追い払った。
史論(胡氏曰)
- 唐渓は姦計を見抜くだけの明があり、信義を守るだけの智があり、身を持するだけの廉があった。もし彼が陳敬瑄の地位にあったなら、阡能・韓秀昇・楊師立の禍は起こりようがなかった。
- ここから見ると、衰えた世で本来の地位を得られない人材は唐渓一人にとどまるまい。世を治める者が賢者を求めるのに汲々とし、聞き逃すことを恐れるのは、まことにもっともなことである。
韓秀昇の乱
- 涪州刺史の韓秀昇が反乱を起こし、高仁厚が討ち平らげた。韓秀昇らは衆を集めて長江筋を荒らし、江淮からの貢賦が断たれ、雲安・淯井の路も通じなくなって塩が欠乏した。そこで陳敬瑄は高仁厚を行軍司馬として三千の兵を率いさせ、これを討ち平らげた。
中和四年(884年)
- 東川節度使の楊師立が挙兵して反し、高仁厚が留後として兵を率い討ち平らげ、東川節度使に任じられた。
- もともと高仁厚が韓秀昇を討つとき、陳敬瑄は成功して帰れば東川を与えると言っていた。これを聞いた楊師立が怒って挙兵したので、詔により高仁厚が討伐に当たった。
- 高仁厚は徳陽に駐屯し、楊師立は将の鄭君雄を鹿頭に据えて防がせ、堅く守って出なかった。高仁厚が砦を並べて包囲すると、夜の二鼓に鄭君雄らが精兵を出して城北の副使の砦を襲った。楊茂言は防ぎきれずに兵を率いて逃げ、諸砦もこれを聞いてみな逃げた。楊茂言は張杷まで逃げたところで追いつかれ、翌朝、高仁厚が斬って見せしめとした。
- 高仁厚は梓州を長く囲んでも落とせず、城中へ書を射込んで将士に告げた。城中の玉石ともに焼くのは忍びないので諸君のために十日の猶予を与える、その間に自ら功を成せ、と。数日後、鄭君雄が楊師立を斬って降った。詔により高仁厚が東川節度使となった。
光啟元年(885年)
- 車駕が成都を発ち、三月に京師へ帰着した。
光啟二年(886年)
- 陳敬瑄が東川節度使の高仁厚を殺した。陳敬瑄は高仁厚を疑って除こうとしていたところ、遂州刺史の鄭君立が挙兵して成都を陥れた。陳敬瑄は将の李順之を迎え撃たせ、鄭君立は敗死した。陳敬瑄はさらに維州・茂州の羌の軍を出して高仁厚を撃ち、殺した。
史論(論曰)
- 僖宗の蜀行幸は三年に及び、その間に叛乱も三度起こった。高仁厚が掃平しなければ、小さな蜀にすら一日も居られなかったであろう。
- 高仁厚の忠誠と智略は、古の名将にも劣らない。世運は衰えても天が人材を生むことは絶えない。僖宗の時代に鄭畋という宰相があり、高仁厚という将があった。この二人が志を伸ばし、陳敬瑄と田令孜がその姦計を遂げられなければ、唐の宗廟も支えきれぬところまでは行かなかったはずだ。
- 高仁厚が阡能らを平らげたさまを見ると、無知な民に腹の底まで打ち明けて、ついに一人も殺さずに済ませた。忠厚の極みというべきである。蜀の民は乱を好むと論じる者があるが、それは言い過ぎではないか。
- 唐渓は邛州の一孔目官にすぎないが、その明智と廉潔は後世の君子が語り継いで喜ぶところである。高仁厚の忠厚もこれほど際立っているのに、宋景文公(宋祁)はその事跡を略し、天子に仕えさせるに足りぬと評した。惜しいことだ。