蜀鑑高崇文、劉闢を討つ(髙崇文討劉闢)
韋皋の死後、剣南西川支度副使の劉闢が自ら留後を称して旌節を求め、東川節度使の李康を梓州に囲むまでに至った永正元年(805年)から、憲宗が杜黄裳の献策を容れて高崇文らに討たせ、元和元年(806年)に成都を陥れて劉闢を檻送・処刑するまで。鹿頭関・徳陽・漢州・玄武と連勝した高崇文は西川節度使となり、この討蜀を機に朝廷の威令が両河にまで及ぶことになった。
順宗永正元年(805年)
- 剣南西川支度副使の劉闢が、自ら留後を称した。節度使の韋皋が死去すると、長く韋皋の幕僚を務めていた劉闢は勝手に留後となり、諸将に上表させて節度使の旌節を求めた。
- 朝廷はこれを許さず、袁滋を西川節度使とし、劉闢を給事中として召還した。劉闢は召還に応じず、兵を構えて自守した。袁滋はその強勢を恐れて赴任できず、怒った順宗は袁滋を吉州刺史に貶し、劉闢を西川節度副使・知節度事とした。
- 憲宗は即位したばかりで討伐に踏み切れなかった。諫議大夫の韋丹が上疏し、劉闢を誅さずに放置すれば、朝廷が手足のように動かせるのは両京だけになり、他はみな叛くだろうと説いた。憲宗はこれを善しとして韋丹を東川節度使とした。
- 旌節を得た劉闢はいよいよ驕り、三川を兼領したいと求めたが、憲宗は許さなかった。
- 劉闢が東川節度使の李康を梓州に包囲した。
憲宗元和元年(806年)
- 憲宗は神策軍使の高崇文に前軍の兵馬を、李元奕に次軍を率いさせ、山南西道節度使の厳礪とともに劉闢を討たせた。高崇文は斜谷から、李元奕は駱谷から進んだ。
- 憲宗は討伐を望みながらも用兵に慎重で、公卿たちも蜀は険阻で攻めにくいと論じたが、杜黄裳ひとりが、劉闢は無謀な書生にすぎず草を拾うように取れる、神策軍将の高崇文は勇略があり用いるに足るから、軍事を一任して監軍を置かなければ必ず擒にできる、と述べた。そこで高崇文に五千、李元奕に二千を率いさせ、厳礪と合わせて討たせた。
- 高崇文は長武城に駐屯していたころから常に敵襲に備えて五千の兵を練り、卯の刻に詔を受けると辰の刻には出発し、武具も兵糧も何一つ欠けていなかった。軍が興元に至ったとき、人の筋を折る乱暴を働いた兵士を高崇文は斬って見せしめとした。
- 劉闢が梓州を陥れて李康を捕らえ、厳礪は剣州を抜いてその刺史の文徳昭を斬った。劉闢は剣閣に拠って官軍に抗した。
- 高崇文が閬州から梓州へ進んで入城・駐屯した。劉闢は自らを弁明しようと李康を送り返したが、高崇文は敗軍失守の罪で李康を斬った。厳礪は梓州攻略を奏上し、劉闢の官爵剥奪の制が下った。韋丹は漢中に至って、高崇文の軍は遠征の客軍で拠り所がないから梓州を与えて士心をつなげば必ず功を挙げると上表し、高崇文が東川節度使に任じられた。
- 劉闢は鹿頭関に城を築き、八つの柵を連ねて一万余の兵を屯し、高崇文を防いだが、高崇文はこれを撃ち破った。劉闢が関の東の万勝堆に置いた柵も、高崇文が部将の高霞寓を遣わして奪わせた。高崇文はさらに徳陽・漢州で劉闢を破り、厳礪の部将の厳秦は綿州の石碑谷で劉闢の兵一万余を破った。
- 高崇文が玄武で劉闢の兵一万を破った。西川へ向かう後続の援軍はすべて高崇文の指揮に属せよとの詔が下った。
- 高崇文がさらに鹿頭関で劉闢を破り、厳秦は神泉で劉闢の軍勢を破った。これにより劉闢方の綿江の柵を守る将の李文悦、鹿頭の守将の仇良輔がいずれも城ごと高崇文に降り、降伏した兵は万を数えた。
- 高崇文が成都を陥れ、劉闢を捕らえて檻車で京師に送り、処刑した。高崇文はまっすぐ成都を突いて陥れ、劉闢は西の吐蕃へ逃げたが、高崇文が高霞寓らに追わせ、羊灌田で追いついた。劉闢は川に身を投げたが死にきれず捕らえられた。盧文若は先に妻子を殺し、石を身に縛って入水した。劉闢は檻送のうえ斬られた。
- 高崇文を西川節度使、厳礪を東川節度使とした。蜀征討を建議し、高崇文に方略を授けたのはいずれも杜黄裳で、その策はことごとく事宜に適っていた。ここから討蜀の用兵が始まり、ついに威令が両河にまで及ぶことになったが、それはみな杜黄裳が開いたものである。
史論(論曰)
- 河北の諸鎮は連衡してしばしば朝命を拒み、地は険しく勢いも強く、確かに抑えがたい。だが小さな蜀がそれと比べられようか。
- 唐は関中に都し、蜀は戸口のすぐ外にある。ただ貞元年間の姑息な政策で吐蕃が跳梁し、韋皋が二十余年も在任し続けた。その轍を踏もうとして劉闢という一狂生が自ら留後を称した。これを討たずして何が国か。
- 憲宗が杜黄裳を宰相に用い、一たび天誅を加えるや威令が両河に行き渡った。まことに偉大である。