蜀鑑唐の明皇、蜀に幸する(唐明皇幸蜀)

安禄山の挙兵で哥舒翰が潼関に敗れ、天寶十五載(756年)に玄宗が楊国忠の献策で長安を捨てて蜀へ落ちのびた行幸の顛末。馬嵬で楊国忠と楊貴妃が誅され、皇太子は残されて東へ向かい霊武で即位する。玄宗は扶風で動揺した将士を春綿で諭し、散関・河池・普安を経て成都に入った。至徳二載(757年)に韋見素の奉迎で蜀郡を発ち、鳳翔を経て咸陽に帰着するまで。

年表(2件)

唐玄宗天寶十五載(756年)

  • 玄宗が都を捨て、蜀へ落ちのびた。安禄山が挙兵し、哥舒翰が潼関で敗れて叛軍が関中に入ったため、楊国忠が真っ先に蜀への行幸を献策し、玄宗もこれを容れた。
  • 玄宗は勤政楼に出て、自ら親征すると詔を下したが、これを信じる者はいなかった。
  • その日の夕方、陳玄礼に六軍の編成を命じ、銭帛を手厚く与え、閑廐の馬九百余頭を選ばせた。
  • 夜明けに玄宗は、楊貴妃とその姉妹、皇子・妃・公主・皇孫、楊国忠・韋見素・魏方進・陳玄礼、および側近の宦官と宮人だけを連れて延秋門を出た。宮外にいた妃・公主・皇孫はすべて置き去りにされた。
  • 一行が馬嵬に宿営したところで、楊国忠と楊貴妃ら楊氏が誅殺された。
  • 玄宗は馬嵬を発ち、皇太子を残して東へ向かわせ、叛軍討伐に当たらせた。
  • 玄宗が扶風に至ると、兵士のあいだに不遜な流言が起こった。折よく成都から春綿十余万疋が献上されてきたので、玄宗はこれを庭に並べさせ、将士を呼んで諭した。老いた自分が人選を誤ったせいで、諸君は父母妻子に別れも告げられぬまま遠路の苦労を強いられている、蜀へ至る道は険しく長く、郡県は小さくて人馬を養いきれまい、望む者は家へ帰るがよい、自分は子孫と後宮だけを連れて蜀へ入る、と述べた。将士はみな泣いて、死をもって従い二心は持たぬと誓った。このとき扶風は鳳翔郡と改められた。
  • 玄宗が散関に至り、扈従の将士を六軍に分け、頴王璬を先発させて剣南へ向かわせ、寿王瑁らがそれぞれ六軍を率いて後に続いた。
  • 玄宗が河池郡に着くと、剣南節度使の崔円が上表して車駕を迎え、蜀の地が豊作であることを詳しく述べた。
  • 玄宗が普安に至り、房琯が拝謁した。房琯を同平章事とした。
  • 皇太子が霊武で即位し、上皇(玄宗)は成都に入った。江淮からの上表や献上物で蜀および霊武に向かうものは、いずれも襄陽から上津の道を通って扶風へ達した。

至徳二載(757年)

  • 粛宗が太子太師の韋見素を蜀へ遣わし、上皇を迎えさせた。
  • 冬十月、上皇が蜀郡を発った。
  • 上皇が鳳翔に至った。
  • 上皇は帯びていた武具をすべて郡の倉庫に納めるよう命じ、粛宗は精騎三千を送って出迎えた。
  • 十二月丙午、上皇が咸陽に到着した。

史論(論曰)

  • 蜀はごく小さな一隅にすぎない。漢の高帝は布衣から身を起こし、項羽に漢中王とされて桟道を焼き払い戻る意思のないことを示したが、それでも南鄭に長くとどまる気はなかった。
  • 明皇(玄宗)は英武の資質を持ちながら安逸に溺れ、禍を招いて外敵を呼び込み、京師を堅守せずに狼狽して蜀へ走った。李光弼・郭子儀らが粛宗を助けて関中を回復しなければ、唐の宗廟社稷も危うかった。
  • その後も徳宗は興元に逃れて急ぎ帰り、僖宗は中和年間に蜀へ三年もとどまり、ついに朱温が唐を簒奪した。
  • 唐人は「神堯(高祖)は一旅の兵で天下を取ったのに、後世は天下をもってしても河北を取れない」と言うが、河北を失った根は、明皇が京師を捨てて蜀へ走ったことにあるのだ。