蜀鑑西魏の尉遅迥、蜀を取る(西魏尉遲迥取蜀)

梁の承聖元年(552年)に蜀に十七年拠った武陵王紀が成都で帝を称し、翌年その紀が国を空にして江陵へ東下した隙を、西魏の尉遲迥が衝いた顛末。宇文泰は「蜀を取って梁を制するのはこの一挙」として迥に散関から蜀を伐たせ、迥は成都を五十日囲んで蕭撝の降を受け入れ、益州刺史となった。李特の乱以来二百四十五年を経て、蜀は西魏に帰した。

年表(2件)

梁承聖元年(552年)

  • 武陵王紀が成都で帝を称した。
  • 紀は蜀にあること十七年、南は寧州・越嶲を開き、西は資陵・吐谷渾に通じ、内は耕作・養蚕・塩鉄の政を整え、外は商賈を通わせて遠方の利を得ていた。侯景が叛き湘東王繹が兵を挙げると、紀もついに帝を称した。

承聖二年(553年)

  • 武陵王紀が江陵を伐ち、魏の尉遲迥が救援として成都を伐った。
  • 紀は諸軍を率いて東下し、蕭撝を留めて成都を守らせた。梁王繹はひどく恐れ、魏に「子糾は親であり、諸侯たる君がこれを討たれよ」と書き送った。
  • 宇文泰は「蜀を取って梁を制するのはこの一挙にある」と言った。大将の尉遲迥は泰の甥で、ひとり実行可能と考え、「蜀は中国と隔絶して百余年、その険と遠さを恃んで我が軍の到来を予期していない。鉄騎で急行して襲えば必ず落とせる」と述べた。泰はそこで迥に散関から蜀を伐たせた。
  • 魏軍が成都を囲み、武陵王紀は還って西陵に次した。紀の軍は敗れ、梁主が紀を殺した。成都は魏に降り、魏は尉遲迥を益州刺史とした。
  • 迥が成都を囲んで五十日、蕭撝は戦うたびに敗れて降を請うた。諸将は許すまいとしたが、迥は「降を受ければ将士は無事で遠方の人も喜ぶ。攻め破れば将士は傷つき遠方の人は恐れる」と言って受け入れた。魏は迥を益州刺史とした。

史論(論曰)

  • 蜀は江左の側にあって晉・宋・齊・梁の四代、二百年にわたり、あるかなきかの扱いで置かれてきた。
  • 夏侯道遷が漢中を魏に渡したのは、魏が取れたのではなく梁が自ら失ったのである。三十年魏に拠られたのち元羅が漢中を南へ返し、さらに二十七年で梁に帰したが、蕭循が再び漢中を北へ渡した。これもまた梁が自ら失ったのだ。
  • 漢中を失うと魏は涪城を重鎮とした(涪城は今の綿州)。武陵王紀が国を空にして東下すると、尉遲迥はその隙を衝いて攻め入り、蕭撝は成都を挙げて降った。迥の武威が蜀を圧倒したわけではない。
  • 蜀という土地は同じである。諸葛孔明は一隅の地で中原と渡り合ってなお余力があり、江左の人々は呉と蜀の全力をもってしても蜀を保てなかった。要は徳にあって険にあるのではない。