蜀鑑梁と魏、漢中を争う(梁魏争漢中)

梁の天監十三年(514年)に魏の高肇が十五万を率いて益州を侵してから、承聖元年(552年)に蕭循が南鄭を挙げて魏に降るまでの、梁と魏が漢中を奪い合った四十年。傅豎眼と張齊の攻防で東益州は魏に戻り、大同元年に蘭欽が南鄭を取り返して漢中は梁に帰したが、侯景の乱に乗じた達奚武の攻略で剣北はことごとく魏に入った。

年表(7件)
  • 梁天監十三年514年高肇が十五万で益州を侵し、任大洪は関城の囲みを解かれて敗走する
  • 天監十四年515年元法僧の苛政に叛いた任令宗が晉寿を挙げて梁に降る
  • 天監十五年516年張齊が武興を囲むが傅豎眼に破られ、東益州は再び魏のものとなる
  • 普通六年525年蕭淵猷が和安を小剣に囲むが、淳于誕に樊文熾が大敗する
  • 大同元年535年蘭欽が南鄭で破って元羅が降り、三十年ぶりに漢中が梁に帰す
  • 梁簡文帝
  • 大寶二年551年宇文泰が達奚武に漢中を取らせ、蕭循は武陵王紀に救援を求める
  • 梁元帝
  • 承聖元年552年楊乾運の救援軍が破れ、蕭循が降って剣北はことごとく魏に入る

梁天監十三年(514年)

  • 魏が高肇に歩騎を督させて益州を侵し、梁は任大洪を派遣して防がせたが破れなかった。
  • 高肇は歩騎十五万を率い、傅豎眼を巴北へ、羊祉を涪城へ、奚康生を綿竹へ、甄琛を剣閣へ向かわせた。
  • 游肇は、近年水害・旱害が続いて民を使役すべきでない、過去の版図拡大はいずれも城主が帰順したので戦わずに済んだのだ、蜀は険阻で守りに隙がなく、大軍を無駄に動かすべきではない、始めを慎まねば悔いても及ばぬ、と諌めたが容れられなかった。
  • 軍が晉寿に至ると蜀人は震え上がった。傅豎眼が歩兵三万で巴北を攻め、梁は任大洪を陰平から間道でその州に入らせ、詔で氐羌を誘って魏の輸送路を断たせた。
  • ちょうど魏の大軍が北へ還ったので、大洪は魏の東洛・除口の二戍を襲って破り、進んで関城を囲んだ。しかし豎眼が姜喜らに撃たせて大破し、大洪は関城を棄てて逃げ帰った。

天監十四年(515年)

  • 晉寿が梁に帰した。
  • 傅豎眼は清廉素朴な人柄で民や獠人に慕われたが、代わった元法僧はもともと統治の才がなく貪欲で残虐だった。王・賈らの諸姓は当州の士族なのに、法僧はみな徴発して兵にした。
  • 葭萌の民の任令宗が、人心が魏を怨んでいるのに乗じて晉寿太守を殺し、城を挙げて梁に降った。民や獠人の多くがこれに応じ、益州刺史の鄱陽王恢は巴西・梓潼二郡太守の張齊に三万の兵を与えて迎えさせた。

天監十五年(516年)

  • 梁の張齊が武興を囲んだが、魏がこれを破り、東益州を回復した。
  • 元法僧は子の景隆に兵を与えて張齊を防がせたが、齊は葭萌で戦って大破し、十余城を屠って武興を囲んだ。法僧は籠城して守るのみで、領内はみな叛き、魏に急を告げた。
  • 魏は傅豎眼を急派し、豎眼は入境してから三日転戦して二百里を進み、九度戦って九度勝った。張齊は白水に退いて守った。
  • 梓潼太守の苟金龍が関城の戍主を兼ねていたが、梁兵が至ると、その妻の劉氏が百余日も防戦し、梁兵はついに退いた。
  • 張齊は再び白水を出て葭萌を侵したが傅豎眼に敗れ、齊は逃げ帰り、諸戍もみな城を棄てて走ったので、東益州は再び魏のものとなった。

普通六年(525年)

  • 梁の蕭淵猷が魏の和安を小剣に囲んだが、魏の淳于誕がこれを撃ち破った。
  • 淵猷は和安を小剣に囲み、将の樊文熾に龍鬚山上へ柵を築かせて帰路を防いだが、淳于誕がその柵を焼き、その勢いに乗じて攻めたので、文熾は大敗し、身一つで逃れた。

大同元年(535年)

  • 梁の鄱陽王範と樊文熾が晉寿を囲み、魏の東益州刺史傅敬和が降って、晉寿は梁に帰した。敬和は傅豎眼の子である。
  • 梁の蘭欽が兵を率いて南鄭で(魏軍を)破り、魏の梁州刺史元羅が降って、南鄭は梁に帰した。天監四年に漢中が魏に入ってから、あわせて三十年で梁に戻ったことになる。

梁簡文帝大寶二年(551年)

  • 魏が梁の南鄭を侵した。
  • 侯景が江陵に迫ったとき、湘東王繹は魏に援軍を求め、梁秦二州刺史の宜豊侯循に南鄭を魏へ渡すよう命じたが、循は承知しなかった。魏の宇文泰は達奚武を遣わして漢中を取らせ、循は参軍の劉璠を武陵王紀のもとへ送って救援を求め、紀は潼州刺史の楊乾運を救援に向かわせた。

梁元帝承聖元年(552年)

  • 梁が兵を送って南鄭を救おうとしたが、魏がこれを破った。
  • 楊乾運が剣北に至ったところを達奚武が迎え撃って破った。劉璠は白馬の西まで戻ったところを武に捕えられ長安に送られたが、宇文泰はかねて名を聞いていたので旧知のように遇した。
  • 当時、南鄭が長く落ちないので達奚武は城を屠ることを請い、泰も許そうとしたが、璠が助命を請い、許されずとも泣いて願いやめなかった。泰は「人に仕えるならこうありたいものだ」と言ってその願いを容れた。
  • 梁州刺史の蕭循が州を挙げて叛き、魏に降った。
  • 達奚武は使者を南鄭に入れて循に「あなたが頼るのは険と援軍と民だが、今や険は拠るに足らず、援軍は当てにできず、民も保てない。宗国は乱れて社稷に主がない、誰のために忠を尽くすのか」と説き、循は降を請うた。
  • 魏の賀蘭徳願は攻め落とすことを請うたが、赫連達は「戦わずに城を得るのは最上の策だ。子女を利とし財貨を貪って民の命を惜しまぬわけにはいかぬ。まして相手の士馬はなお強く城池も堅固で、攻めて落とせなければ双方が傷つき、窮鼠が噛みつくように成敗も定かでなくなる」と言い、武も「そのとおりだ」として循の降を受け入れ、男女二万口を得て引き揚げた。
  • こうして剣北はことごとく魏に入った。大同元年に漢中が梁に帰してから二十七年で、再び魏のものとなったことになる。