蜀鑑苻堅、蜀を取る(苻堅取蜀)

前秦の苻堅が梁州・益州を奪った経緯を扱う。寧康元年(373年)、王統・朱彤・毛当・徐成らが漢川と剣門から侵入し、楊亮は青谷で敗れ、周虓は降り、周仲孫は南中へ逃げて二州は秦の手に落ちた。翌年の張育・楊光の蜂起も鄧羌・楊安に鎮圧され、以後は魏興の吉挹の死、裴元略の水軍整備と続き、太元八年(383年)の淝水の大敗で終わる。

年表(6件)

晉寧康元年(373年)

  • 秦(前秦)王の苻堅が、王統・朱彤に二万の兵を率いさせて漢川へ出し、毛当・徐成に三万を率いさせて剣門へ出し、梁州・益州へ攻め入らせた。
  • 梁州刺史の楊亮が巴の獠族一万余を率いて防ぎ、青谷で戦って敗れ、西城へ逃げた。朱彤は漢中を抜き、徐成は剣門を攻め落とした。
  • 秦の梁州刺史・楊安が梓潼へ進撃した。太守の周虓は涪城を守っていたが、母を朱彤に捕らえられ、ついに楊安に降った。楊安は梓潼を落とした。
  • 荊州刺史の桓豁が江夏相の竺瑶を送って梁州・益州を救わせたが、竺瑶は広漢太守の趙長の死を聞いて兵を退いた。益州刺史の周仲孫は兵を率いて綿竹に至り、騎五千を率いて南中へ逃げた。
  • 秦の苻堅は楊安を益州牧として成都に鎮させ、毛当を梁州刺史として漢中に鎮させ、姚萇を寧州刺史として墊江に駐屯させ、王統を南秦州刺史として仇池に鎮させた。
  • 桓沖は毛虎生を益州刺史・領建平太守とし、その子の毛球を梓潼太守とした。毛虎生と毛球は秦を討って巴西まで進んだが、食糧が乏しく巴東へ退いて駐屯した。

寧康二年(374年)

  • 蜀の人・張育と楊光が兵を挙げて秦を撃ち、使者を送って晉に援兵を請うた。秦王の苻堅は鄧羌を送って討たせた。
  • 益州刺史の竺瑶と威遠将軍の桓石虔が二万の兵を率い、墊江の姚萇の軍と戦ったが敗れ、五城に退いて駐屯した。竺瑶と桓石虔は巴東に駐屯した。
  • 張育は巴の獠族の酋帥である張重・尹万らと合わせて五万余人で進み、成都を包囲した。秦の楊安と鄧羌が張育を襲って破り、八月、鄧羌は涪の西で晉軍を破り、楊安は成都の南で張重・尹万を破った。張重は戦死し、斬首は二万三千級にのぼった。鄧羌は綿竹で張育と楊光を撃ち、いずれも斬った。

晉孝武太元三年(378年)

  • 秦の梁州刺史・韋鍾が、西城の魏興太守・吉挹を包囲した。

太元四年(379年)

  • 右将軍の毛虎生が三万の兵を率いて巴中を撃ち、魏興を救おうとしたが、秦将の張紹らに敗れ、巴東へ退いて駐屯した。韋鍾は魏興を抜き、吉挹は死んだ。

太元六年(381年)

  • 秦王の苻堅が裴元略を巴西・梓潼郡太守とし、ひそかに水軍を整えさせた。

太元八年(383年)

  • 十一月、苻堅が侵攻して淝水で大敗した。