蜀鑑晋、ふたたび蜀を取る(晉復取蜀)
淝水の戦い前後に東晋が蜀を取り戻すまでの三年間を扱う。太元八年(383年)の桓沖・楊亮の攻勢は張蚝・姚萇の来援で実らなかったが、太元九年(384年)に姚萇の叛乱で秦の益州兵が長安救援に北上し、漢中も放棄された。太元十年(385年)、王広が隴西へ逃げ帰ったのち任権が成都を落として李丕を斬り、羅友が益州刺史として成都に鎮した。
太元八年(383年)
- 夏五月、桓沖が十万の兵を率いて秦を討ち、輔国将軍の楊亮を送って蜀を攻めさせ、五城を抜いて涪城へ進撃した。秦は張蚝と姚萇を送って涪城を救わせ、張蚝が斜谷へ出ると楊亮は兵を引いて帰った。桓沖はたびたび秦の蜀を討ったが功なく引き揚げ、蜀の二邑を抜いただけであった。
太元九年(384年)
- 梁州刺史の楊亮が五万の兵を率いて蜀を討ち、巴西太守の費統らに水陸三万の兵を率いさせて前鋒とし、自らは巴郡に駐屯した。秦は王広と康回を送ってこれを防がせた。
- 姚萇が秦王の苻堅を撃った。秦の益州刺史・王広は将軍の王蚝に蜀漢の兵三万を率いさせ、北上して長安を救わせた。
- 秦の梁州刺史・潘猛が漢中を捨てて長安へ逃げた。
太元十年(385年)
- 秦の益州刺史・王広は李丕を益州刺史として成都を守らせ、自らは配下を率いて隴西へ逃げ帰った。これに随って蜀を去った者は三万余人にのぼった。
- 蜀郡太守の任権が成都を攻め落とし、秦の刺史・李丕を斬って、益州を取り戻した。
- 広州刺史の羅友を益州刺史として成都に鎮させた。