蜀鑑江左、蜀を用いず(江左不用蜀)
桓温が蜀を取ったのちも東晋がその地を北伐に活かせなかった約四十年を扱う。咸康元年(335年)の司馬勲の漢中経略から、永和年間の司馬勲の北出と敗退、興寧三年(365年)の司馬勲の叛乱と誅殺、周撫・周楚父子の益州統治を経て、寧康元年(373年)の桓温の死までを追い、その直後に苻堅が蜀を得る伏線を示す。
晉咸康元年(335年)
- 晉が建威将軍の司馬勲に詔して兵を率いさせ、漢中の民を安んじ集めさせた。漢(成漢)の主・李寿がこれを撃ち破り、そのまま漢中に守宰を置いて南鄭に築城し、引き揚げた。
永和三年(347年)
- 荊州刺史の桓温が蜀を討ち、これを手に入れた。
- 蜀の旧将である鄧定・隗文らが背いて成都に入り拠った。征虜将軍の楊謙は涪城を捨てて逃げ、徳陽に退いて守った。
永和四年(348年)
- 益州刺史の周撫が范賁を撃って斬り、益州は平定された。
- 梁州刺史の司馬勲が駱谷を出て趙の長城の守備を破り、懸鈎に塁を築いた。
- 司馬勲は懸鈎を引き払って宛城を抜き、趙の南陽太守・袁景を殺して、また梁州へ帰った。
永和十年(354年)
- 桓温が大挙して秦(前秦)を討ち、司馬勲を子午道から出撃させた。
- 司馬勲が秦の西辺を掠奪した。
- 秦の丞相・苻雄が騎兵七千を率いて子午谷に司馬勲を襲い、これを破った。司馬勲は退いて女媧堡に駐屯した。
- 秦の丞相・苻雄が陳倉で司馬勲を撃ち、司馬勲は漢中へ逃げた。
哀帝興寧三年(365年)
- 益州刺史の周撫が死に、その子で犍為太守の周楚が後を継いだ。
- 梁州刺史の司馬勲が兵を挙げて背き、成都に周楚を包囲した。大司馬の桓温は朱序を送って救援させた。
海西公太和元年(366年)
- 荊州刺史の桓豁が桓羆を送って南鄭を攻め、司馬勲を討たせた。朱序と周楚が司馬勲を撃って捕らえ、桓温はこれを斬って首を建康へ送った。
簡文帝咸安元年(371年)
- 益州刺史の周楚が死に、寧州刺史の周仲孫が益州刺史となった。
孝武帝寧康元年(373年)
- 秋七月、大司馬の桓温が死んだ。
史論(論曰)
- 晉室が南に渡って中原を失ったのは、五胡が一斉に興って支えきれなかったためだと言い訳もできる。しかし呉と蜀は唇歯の関係にあり、かつて孫権と劉備が結んで曹魏に対抗できたほどの土地である。
- 桓温が蜀を取ったとき、忠信の長官と厳毅な将帥を選び、民の生育を養い、教化を施し、流民を集め、害をなす者を追い払って、積年の悪習を一新したうえで、一将に秦川へ出させ、自らは宛・洛へ向かうべきであった。そうすれば諸葛亮の志も少しは伸ばせたであろう。
- ところが軍は㶚上まで進みながら空しく引き返し、司馬勲の犄角の軍も頼むに足りなかった。西方の憂いはやまず、桓温が死ぬと苻堅が蜀を得た。薄氷が厚氷になる兆しは、まことにこのことである。