蜀鑑桓温、李勢を討つ(桓温討李勢)

晋の荆州刺史桓温が成漢を滅ぼした遠征を扱う。永和二年(346年)十一月、袁喬の献策を容れた桓温は表を上げるや出発し、魚復を遡って八陣図を眺めつつ無人の境を進んだ。翌永和三年(347年)三月、彭模で軍を分けず全軍で成都へ直行し、笮橋の戦いで漢主李勢を降した。李特入蜀以来六代五十年の成漢はここに滅んだ。

年表(2件)
  • 晉穆帝
  • 永和二年346年桓温が袁喬の策を容れ、表を上げて蜀討伐に発する
  • 永和三年347年笮橋の戦いで李勢が降伏し、成漢が滅んで桓温は江陵へ帰る

晉穆帝永和二年(346年)

  • 十一月、荆州刺史の桓温が蜀討伐に出発し、表を上げるとそのまま行軍した。
  • 出兵に際し幕僚はみな不可としたが、袁喬が説得した。李勢は無道で臣民の支持を失い、険阻と遠隔を頼んで軍備を怠っているから、精兵一万を軽装で急進させれば、相手が気づく前に険要を越えられ、一戦で捕らえられるという論である。
  • 袁喬はさらに、蜀の地は富饒で人口も多く、諸葛亮はこれを用いて中原と対抗した、これを得れば国家の大利だと述べ、桓温は従った。
  • 十一月辛未、桓温は益州刺史の周撫、南郡太守の譙王無忌を率いて蜀へ向かい、表を上げると即座に発した。
  • 桓温の軍は魚復まで遡った。諸葛亮が魚復の平沙の上に築いた八陣図があり、石を八列に積み、列の間は二丈であった。桓温はこれを見て常山の蛇の陣勢だと評した。

永和三年(347年)

  • 三月、桓温の軍が青衣に達すると、漢主の李勢は李福・李権を彭模へ、昝堅に兵を率いさせて犍為へ向かわせた。
  • 李福らは山陽から合水へ向かった。諸将は江南に伏兵を置いて晋軍を待とうとしたが、昝堅は従わず、江北の鴛鴦碕から渡って犍為へ向かった。
  • 桓温が彭模に至ると、軍を二手に分けて別道から進み漢軍の勢力を分散させようという議が出た。袁喬は、孤軍で深入りしている以上、二分して片方が敗れれば全てを失う、全軍で進み三日分の糧だけを携えて退く気のないことを示せば勝ちは確実だと説いた。
  • 桓温は自ら歩兵を率いて成都へ直行した。李福が彭模を攻めたが孫盛らが奮戦して退けた。桓温は進んで李権と遭遇し、三戦三勝した。
  • 昝堅は犍為に至って初めて桓温と道を違えたことを知り、沙頭津から引き返したが、着いたときには桓温はすでに成都の十里陌に迫っており、昝堅の軍は自壊した。
  • 桓温は一気に成都へ至り、李勢が降伏した。
  • 李勢は全軍を出して笮橋で戦ったが、袁喬が士卒を督励して大破し、李勢は棺を車に載せて降伏した。
  • 四月、桓温は軍を整えて江陵へ帰還した。桓温は成都に三十日留まった。李勢の降表は三月十七日に桓温へ降ったとする。

史論(論曰)

  • 李雄が蜀に拠ったとき、ついに漢中を得られず、瞿唐・灔預にも一人の守兵すら置かなかったため、二つの門が開いたまま内部まで見通されてしまった。
  • 桓温が魚復を遡ったときは、悠々と八陣図を眺めるほど無人の境を行くようで、そのまま蜀の命運を制した。
  • ここから、陶侃が荆州に四十年も鎮座しながら僭偽の政権に一矢も加えなかったのは、まことに晋室に対する不忠であったと知られる。