蜀鑑李雄、僭して蜀の地を定む(李雄偽定蜀地)

羅尚の死後、益州の晋側が刺史の相殺を繰り返して自壊し、李雄が巴西・梓潼から漢中までを併呑する経過と、蜀を逃れて荆湘へ下った十余万戸の流民が杜弢を主に推して蜂起し、鎮圧されるまでを扱う。永嘉四年(310年)の皮素・羅宇の相殺から建興三年(315年)の杜弢の逃亡までで、李驤・譙登・文碩・応詹・陶侃・王敦らが関わる。蜀の人材が東へ流れ、蜀の地は李雄の手に落ちた。

年表(9件)
  • 永嘉四年310年羅宇が皮素を殺し暴重が羅宇を殺すなど、益州の晋側が自壊する
  • 愍帝
  • 建興元年313年蘭維が捕らえられ、梁州刺史の張光も楊難敵らに敗れて死ぬ
  • 建興二年314年漢中の張咸らが降り、李雄が漢中を平定して諸州刺史を置く
  • 蜀人杜弢ら、荆湘へ流れる蜀の流民が荆州・湘州へ下り、杜弢を中心に動く一連の経緯
  • 晉太安二年303年李特の乱で益州の流民十余万戸が荆州へ移り、劉弘が撫養する
  • 永嘉五年311年応詹と杜弢が李驤を破り、のち流民が湘州で杜弢を主に推し挙兵する
  • 永嘉六年312年周顗が荆州刺史となり、王敦が王澄を誣告して縊り殺す
  • 建興元年313年朱伺が武昌で杜弢軍を破り、陶侃が荆州刺史となる
  • 建興三年315年杜弢が降伏を許されるも諸将の攻撃に再叛し、敗れて行方を絶つ

永嘉四年(310年)

  • 皮素が益州刺史に任じられたが、羅宇が巴郡で皮素を殺し、建平都尉の暴重が羅宇を殺した。官属は韓松を刺史に推す上表を行い、巴東を治所とした。
  • 経緯はこうである。李雄が李驤を派して涪城の譙登を攻めさせたとき、羅尚の子の羅宇は譙登に糧を送らなかった。皮素が巴郡に至って羅宇の罪を裁こうとすると、羅宇は人を遣って夜に皮素を殺させた。暴重は引き返して羅宇を殺し、巴郡は混乱し、官属は監軍の韓松を刺史に推した。

永嘉五年(311年)

  • 李驤が涪城を抜き、梓潼太守の譙登が死んだ。続いて巴西を抜き、太守の文碩も死に、李雄は初めて巴西・梓潼の地を確保した。
  • 李驤が涪城の譙登を攻めたとき、譙登は兵糧が尽き援軍も絶え、士民は鼠を燻して食い、餓死者が多数出たが、一人も裏切らなかった。正月に城は落ち、李驤は勢いに乗じて巴西を抜き文碩を殺した。
  • これで巴西・梓潼は李雄の領有となり、李雄は大赦して玉衡と改元した。譙登は成都へ送られたが屈せず、李雄に殺された。
  • 李雄が軍を派して僰道を攻め、犍為太守の魏紀は城を棄てて逃げ、江陽太守の姚襲は戦死した。
  • 氐の隗文らが乱を起こし、暴重が討伐に当たったが、暴重は刺史の韓松を殺して自らその任を代行した。
  • 巴東の将吏が暴重を殺し、巴郡太守の張羅に三府の事を代行させる上表を行った。張羅は隗文らと戦って死に、王異を刺史代行とする上表がなされた。隗文らは吏民を駆り立てて李雄に降った。
  • 江陽太守の張啓が刺史の王異を殺して代わったが、張啓が死ぬと官属は涪陵太守の向沈を後任とする上表を行い、南の涪陵に退いて守った。

愍帝建興元年(313年)

  • 向沈が死に、蜀郡太守の程融らが汶山太守の蘭維を西夷校尉とする上表を行った。蘭維は吏民を率いて北へ出て巴東に至ったが、李雄の将である李恭・費黒らに捕らえられた。
  • 涪陵の李運と巴西の王建が漢中を侵し、梁州太守の張光が参軍の晋邈を遣って撃ち殺した。王建の婿の楊虎は残兵を集めて厄水に屯し、張光は子の張孟萇を派したが討ち取れなかった。
  • 成都の氐王・楊難敵が兵を出して楊虎を救い、張孟萇を撃って敗死させた。張光も死に、州人は胡子序を立てて梁州を統べさせたが、楊虎と楊難敵に攻められ胡子序は城を棄てて逃げた。

建興二年(314年)

  • 漢中の民である張咸らが楊難敵を追い払い、その地を挙げて李雄に降ったため、李雄は漢中を平定した。
  • 李雄は李鳳を梁州刺史、任回を寧州刺史、李恭を荆州刺史とした。

蜀人杜弢ら、荆湘へ流れる

晉太安二年(303年)

  • 益州の流民十余万戸が荆州へ移った。
  • 李特の乱により三蜀の民は逃散し、南へ入り東へ下ったため、城邑は空になり野に炊煙が絶えた。荆州へ入った者は十余万戸に及んだ。
  • 旅寓の貧窮を見た鎮南将軍の劉弘は、田地と種籾を手厚く与え、賢才を抜擢して才に応じて任用したので、流民は次第に落ち着いた。

永嘉五年(311年)

  • 蜀人の李驤が楽郷県令を殺したが、南平太守の応詹と醴陵令の杜弢がこれを撃ち破った。
  • 巴蜀の流民は荆州一帯に散在して土着民にしばしば侵害され苦しんでいた。蜀人の李驤は衆を集めて楽郷に拠り、応詹と杜弢がこれを破った。
  • 杜弢は字を景文といい、蜀郡成都の人。祖父の杜植は蜀で名があり、杜弢も才学で知られ、州から秀才に挙げられて成都の別駕となった。
  • 巴氐の流民が蜀へ入ったとき、羅尚が追い返そうとしたのに対し、杜弢は流民に一年の猶予を与えるよう勧めたが容れられず、秀才の板を返上して家に帰った。李特が反すると荆州へ避難し、応詹がその才を愛して礼遇し、醴陵令に辟召した。李驤が楽郷に屯すると杜弢がこれを破ったのである。
  • 荆州太守の王澄が李驤を討ち、李驤は降伏を請うた。王澄は許すと見せて襲い、その妻子を恩賞として与え、八千余人を長江に沈めた。
  • 益州の流民が湘州で兵を挙げ、杜弢を主に推し、南は零陵・桂陽を破り、東は武昌を掠めた。
  • 李驤の死後、流民の怨みはいっそう深まり、杜疇・蹇撫らが再び湘州を騒がせた。参軍の馮素は流民の汝班・蹇碩と折り合わず、刺史の荀眺に「流民はみな反する気だ」と告げた。荀眺はこれを信じて流民を皆殺しにしようとしたため、汝班らは死を恐れて衆を集め杜疇に呼応した。当時湘中にいた杜弢が衆に推されて主となり、荀眺は城を棄てて逃げ、郡邑が次々と落ちた。
  • 征南将軍の山簡が夏口に鎮していたので、杜弢は事情を詳しく述べたが、山簡はまもなく死んだ。
  • 王澄が王機を派して杜弢を撃たせたが勝てず、王澄は治所を孱陵へ移した。

永嘉六年(312年)

  • 周顗が荆州刺史となり、王敦は陶侃と尋陽太守の甘卓を派して共に杜弢を撃たせた。王敦は王澄を殺した。
  • 周顗が着任すると建平の流民である傅密らが叛いて杜弢を迎え、杜弢は別将の王真を派して沔陽を襲わせたため、周顗は狼狽して拠り所を失った。王敦は王澄が杜弢と通信していたと誣告して縊り殺した。

建興元年(313年)

  • 周顗が潯陽に屯すると杜弢がその人口を掠めた。陶侃が朱伺を派して救わせ、朱伺は武昌で杜弢の軍を大破し、陶侃は荆州刺史に任じられた。
  • 陶侃が杜曽に敗れると、王敦は上表して陶侃を白衣のまま職に留めた。陶侃は周訪らを率いて進撃し杜弢を大破したので、官位が復された。

建興三年(315年)

  • 杜弢が応詹に書を送り、琅琊王への降伏を願い出て、琅琊王はこれを許した。
  • 杜弢の書の趣旨はおよそ次の通りである。天下の艱難は自分の州から始まり、州の同郷者は荆州の地へ流れ、行く先々で捨て置かれるように扱われ、死んだ者は半ばを超えた。その苦しみは応詹自身も見てきたはずだ。
  • 客と主が長く共にあれば嫌隙は生じやすく、楽郷の変事は自分の意図したものではない。当時は応詹とともに疑いを解こうと図り、首謀者の捕縛に努め、ただ策が遠くに及ばず力が及ばぬことだけを恐れていた。
  • 湘中に移ってからは死を恐れて生を求め、やむなく結集して身を守り、天下が少し定まればまっすぐ盟府に誠を差し出すつもりであった。山簡が夏口に鎮したとき事情を残らず述べたところ、山簡は事の道理と窮通の変を見抜き、衆人の疑いの中から自分を受け入れてくれた。高い見識がなければできないことで、西州の人士が清流に浴せたのは骨肉の恩に等しい。ところが山簡の死でこの話は中絶した。
  • 滕永文・張休豫を大府へ遣って挙兵以来の顛末を申し述べさせたかったが、功名を貪る輩が主君の耳に讒言し、使者を市朝で処刑して叛逆の罪を印象づけるのを恐れ、遣わせずにいた。
  • そこへ甘卓・陶侃の軍が水陸十万で到り、旌旗は山沢に輝き舟艦は三川に溢れた。威勢は確かに盛んだが、自分の衆はこれを恐れてはいない。
  • 晋の文公が原を伐ったとき信義を全うすることを本としたからこそ諸侯が帰服した。陶侃は赦書を宣布しながら続けて進討する。これでは明詔を奉じ天下に規範を示すどころか、義に向かおうとする者を叛逆者に追い込み、善を思う人々を赦されざる罪へ追い詰めることになる。戦わずして人を屈服させる算ではない。烏合の衆を駆り立てて必死の者と一戦を求めるのは、勝敗を争う機を得た策とは言えない。
  • 自分の赤心は神明に通じており、西州の人士の事情は応詹もおおよそ承知しているはずだ。冤を抱えたまま大府に弁明できずに終わってよいものか。虞卿は大国の相の栄を捨てて魏斉と安危を共にし、司馬遷は李陵を救おうと明言して刑を受けても悔いなかった。
  • 応詹は千里に威を振るい岷山・衡山に名を響かせているのだから、進んでは国のために乱を静める策を思い、退いては旧交のために曲直を正す。それだけの余裕はあるはずだ。この書を盟府へ届け、大使を派遣させてほしい。肝胆を披瀝できれば身を没しても恨みはない。
  • 盟府が綱紀を結び聖世を匡すなら、自分も義徒に列して戈を負い先駆けとなり、皇輿を宮門に迎え長蛇を辺境へ掃討したい。そうなれば死ぬ日も生きる年に等しい。
  • もし中原を平定するのなら、一年分の糧を得て流れを遡り西へ帰り、李雄の残賊を討ち、禹貢の旧に従って貢献を修め、微力を尽くして過去の過ちを償い、州邦を回復して隣国に謝したい。それも自分の志であり、処置は任せる。
  • 自分は遠州の寒士で応詹とは身の処し方が違い、神交をもって危急を救ってもらうには足りない。ただ自分の忠誠が明らかになれば、汶山・岷山の地は忠順の恕を受け、衡山・湘水に叛徒討伐の憂いがなくなる。どうか広く受け入れ、溺れかけた我々を救ってほしい。返書を惜しんではならない。
  • 十余万の口が警備に疲れ果て、南の田畝で安らぐことを願っている。衡岳・江湘の地は自分の左右にある。もしこの言に二心があり誠が認められないなら、益州が禍を受けるのであって、単なる自分の言葉だけの問題ではない。
  • 応詹は深く哀れみ、杜弢の書を奉呈するとともに上言した。杜弢は益州の秀才で清望があり、文理に優れ実務にも長け、使いに出たまま流寓して自分の郡界に住んでいた。その貞潔さは自分がよく知っている。
  • 李驤の変事で楽郷が善良な民を掠奪したとき、杜弢は私財を投じて忠勇の士を募り、壇に登って血をすすり、慷慨して義に赴いた。李驤が南平を焼き攻めたので杜弢は東へ巴漢の地へ流れ、湘中で同郷人と出会い、その平素の人望から推されて結び付いたのである。
  • したがって杜弢の本心は乱の張本ではない。ただ湘川を破ったのは確かに杜弢の罪であり、兵を交えるうちに事態が拡大したものである。
  • 応詹はさらに、朱鮪が洛陽で疑心を抱いたとき光武帝が河水を指して心を明かし、朱鮪は義に感じて帰順し、力を尽くして侯に封じられた例を引いた。過ちを許して功を録すのが道である。
  • 今は厄運の時であり、遠大な度量を弘めるべきだ。斉は帯鉤を射た者を赦し、晋は袖を斬った者を許したからこそ、翼戴の高勲と一匡の美誉を成し得た。まして杜弢らには元来そうした罪がなく、頭を垂れて命を投げ出しているのだから、なおさらである。
  • 大使を遣って聖旨を宣揚し、恩沢が上から施され百姓が下でこれに浴すれば、上下は和合し、江左に兵乱の憂いはなくなる、というのが応詹の結論であった。
  • 杜弢は巴東監軍に任じられ、前の南海太守・王運がその降伏を受けることとなった。しかし諸将が攻撃をやめなかったため、杜弢は王運を殺し、将の王真を武陵の五谿へ入れて官軍の輸送路を断った。
  • 杜弢は任命を受けたのに、功を求める諸将が攻撃を続けたので、憤りに堪えず王運を殺して再び反したのである。
  • 陶侃と応詹が進んで杜弢を攻め、杜弢の将の王真が降伏し、杜弢は逃亡して行方が分からなくなった。
  • 陶侃らの諸軍が一斉に進むと杜弢は逃げ去って消息を絶った。城中には金銀財宝が溢れていたが、応詹は一切取らず、ただ図書のみを取ったので、皆が感嘆した。

史論(論曰)

  • 蜀の流民十余万家が東へ流れ下ったとき、劉弘(和季)は江陵で田を与え、山簡(季倫)は夏口で帰順を受け入れた。招懐の方策としてはほぼ妥当であった。
  • 四方が窮迫する中で江左だけが安泰だったのだから、琅琊王の君臣は流離が自国に及ぶことを思い、才に応じて任用し武器を与え、その鋭気を用いるべきであった。
  • 李雄が僭号しても魚復や江関を守る者はなく、長駆して旧領を回復し、荆益二州の長所を合わせて中原を図ることもできたはずである。
  • ところが王敦(処仲)は剛愎で猜疑深く王室に不忠であり、陶侃(士行)もこの構想を解せず、杜弢討伐を最大の功として凱旋し勲を記し、それによって上流の専任を得た。志が浅い。
  • 陶侃は温嶠とともに蘇峻を討ったときも、顧命に与らなかったことだけを不満とし、わずかな兵糧の蓄えを恃んで勤王の誠を二にしようとした。その心事の不純さは推して知るべきで、いかに機知に明るく細事に勤勉でも、晋における功烈はその程度に低い。諸葛孔明のような忠順とは比べようもない。
  • そもそも蜀に入った巴氐は二万人にすぎない。それなのに蜀の士人たちは郷里を糾合して僭逆を討ち墳墓を守る計を立てず、軽々しく驚き慌てて東へ下り、異郷で倒れ、誅死の罪に陥った。杜弢の一件は蜀の地にとって永く鑑とすべき事例であろう。