蜀鑑巴東(今の帰州)(巴東今歸州)
西晋末、益州刺史の羅尚が巴郡へ移屯して李雄の成漢と対峙した数年間を扱う。羅尚は関戍を設けて漢安・僰道まで防線を張り、譙登・文碩・張羅らが涪城・巴西・合水に拠って抵抗したが、李雄は漢中を掠め梓潼を奪い返し、永嘉四年(310年)の羅尚の死で晋側の抵抗の要が失われた。
年表(4件)
- 羅尚、巴郡へ移屯する羅尚が巴郡へ移り蜀を撃ち、李驤の妻子を捕らえる
- 永嘉元年307年羅尚が漢安・僰道まで関戍を置き、李雄軍が南鄭を陥れる
- 永嘉二年308年李鳳が晉寿に屯して漢中を侵し、張光が梁州刺史となる
- 永嘉四年310年譙登が涪城に拠って李雄を破るも、秋七月に羅尚が死去する
羅尚、巴郡へ移屯する
- 羅尚が駐屯地を巴郡へ移し、兵を出して蜀を撃ち、李驤の妻の昝氏と子の李寿を捕らえた。
永嘉元年(307年)
- 羅尚が関と戍を設け、漢安・僰道にまで及ばせた。
- 秦州の流民である鄧定らが成固に拠って漢中を掠め、李雄が李離らを派して助けたため、南鄭が陥落した。
- 李離らは引き揚げる際に漢中の民をことごとく蜀へ移した。漢中の人・句方が伯落を率い、吏民とともに南鄭に戻って守った。
永嘉二年(308年)
- 李雄が将軍の李鳳を晉寿に駐屯させて漢中を侵させたため、詔により張光が梁州刺史となり新城を治所とした。
- 天水の訇琦が李雄の太尉を殺し、梓潼を挙げて羅尚に降った。李驤が訇琦らと戦って敗れ、戦死した。
永嘉四年(310年)
- 荆州牧の劉弘が譙登を梓潼内史に推挙した。譙登は宕渠へ進攻して李雄の巴西太守を殺し、涪城に戻って拠った。
- 譙登は譙周の孫で巴西に住み、李雄の巴西太守・馬脱に父を殺されていた。劉弘のもとへ赴いて復讐のための兵を請い、劉弘は彼を梓潼内史に推し、三巴・蜀漢の民を募兵させて州郡の回復に当たらせた。
- 譙登は宕渠を攻めて馬脱を殺し、その肝を食らった。折しも梓潼が降ったので、進んで浯城に拠った。李雄が自ら攻めたが譙登に敗れた。
- 李雄が李国を巴西に鎮させたが、帳下の文碩が李国を殺し、巴西を挙げて羅尚に降った。
- 折衝将軍の張羅が進んで犍為の合水に拠った。
- 李雄が張宝を派して梓潼を襲わせ、訇琦らは巴西へ逃れた。
- 秋七月、散騎常侍・都督梁益二州・夷陵侯の羅尚が死去した。
史論(論曰)
- 李特父子は晋室の混乱に乗じて蜀で跳梁したが、羅尚は凡庸な人物にすぎないのに、晋の方伯としての権限だけで李特を誅し李雄に対抗できた。李雄が蜀で僭号しても、漢中や三巴の地は本来その手中にはなかった。
- 当時、中原は乱れ劉弘は死んだが、琅琊王は建業に、陶侃は武昌におり、蜀の士人で荆州へ南下した者は十余万に上り、譙登らも自力で立ち上がっていた。
- もし江左の君臣に荆州と益州を併せ持つ構想があり、陶侃に討賊の責を負わせ、蜀の人士を西へ帰らせて復興させていれば、李雄が討たれずに済む賊であり続けたはずはない。
- 王導(茂弘)や陶侃(士行)の謀が遠くに及ばず、蜀を蛮夷に委ねてしまったのは惜しむべきことである。