蜀鑑李特、蜀に入る(李特入蜀)

晋惠帝元康八年(298年)に巴氐の流民李特らが略陽から蜀に入り、永康九年(300年)に成都を陥れるまでの経緯。関中の飢饉で六郡の民数万家が漢川へ流れ込み、路上の困窮者を救った李特・李庠・李流の兄弟が人心を得た。入蜀を禁ずる詔は戸曹李苾が関を開いたことで空文となり、流民は梁州・益州に散って抑えが利かなくなる。益州牧を自称した趙廞が李庠を斬ったため兄弟は挙兵し、費遠を破って成都を攻め、趙廞は逃走先で殺された。

年表(2件)
  • 晉惠帝
  • 元康八年298年李特ら巴氐の流民が略陽から蜀に入り、流民の人心を得る
  • 永康九年300年李庠を斬られた李特が挙兵して成都を攻め、趙廞が逃走先で殺される

晉惠帝元康八年(298年)

  • 巴氐の流民である李特らが略陽から蜀へ入った。
  • もともと張魯が漢中にいた頃、巴西宕渠の賨人・李氏が身を寄せ、魏の武帝が漢中を平定すると李氏は魏に帰順して略陽へ移され、巴氐と称された。
  • その孫の李特・李庠・李流はいずれも武才があった。関中が飢饉に見舞われ、略陽・天水など六郡の民が食を求めて漢川へ流入し、その数は数万家に及んだ。
  • 路上で困窮する流民を李特兄弟が救済したため、人心を得た。
  • 漢中に至った流民は巴蜀での寄食を願い出たが、詔は許さず関を閉ざして禁じた。しかし戸曹の李苾が関を開いて通したため、流民は梁州・益州に散り、もはや止められなくなった。
  • 劍閣に至った李特は嘆息し、これほどの地を持ちながら人に縛られた劉禪は凡才にほかならないと評した。

永康九年(300年)

  • 李特が成都に入り、前の益州刺史・趙廞を殺した。
  • 趙廞は密かに蜀に拠る志を抱き、武才のある李特兄弟を厚遇していた。詔で大長秋として召還され、耿滕が益州刺史に任じられると、趙廞は耿滕を殺して益州牧を自称し、李庠を用いた。
  • 李庠は驍勇で人望を集めたため趙廞に忌まれ、僭号を勧めたのを口実に斬られた。
  • 李特・李流はこれを恨んで兵を挙げ、綿竹に布陣した。趙廞は費遠を派して北道を断ち綿竹の石亭に屯させたが、李特は七千余の兵を集めて費遠らを襲い破った。
  • そのまま成都を攻めると趙廞は逃走し、廣都で従者に殺された。