蜀鑑羅尚、李特を討つ(羅尚討李特)
永寧元年(301年)に益州刺史となった羅尚が、太安二年(303年)に李特を斬るまでの三年間の抗争。羅尚・辛冉・李苾は流民の帰郷を厳しく督促し、猶予を求める李特の再三の請願を退けて財貨の収奪まで謀った。そのため流民は李特に帰し、二万を超える勢力となって辛冉を破り廣漢を占拠、成都の羅尚と長期対峙に入る。宋岱・孫阜の救援を得た羅尚は李特を斬って首級を洛陽に送るが、李流・李雄が孫阜を破り、荆州の軍は退いた。
永寧元年(301年)
- 詔により羅尚が益州刺史となった。
- 李特らは羅尚の着任を聞いて恐れ、綿竹で牛と酒を供して労った。牙門将の王敦と廣漢太守の辛冉は李特を誅すよう勧めたが、羅尚は従わなかった。
- 朝廷は符を秦州・雍州に下して流民の召還を命じ、御史を派して監督させた。李特の兄・李輔が略陽から蜀へ来て、中原は乱れており帰る必要はないと語り、李特もそう考えた。
- 李特はたびたび天水の閻式を羅尚のもとへ遣り、秋まで召還を猶予するよう求めた。
- 朝廷が趙廞討伐の功を論じ、李特を宣威将軍、弟の李流を奮威将軍とし、ともに侯に封じた。璽書が益州に下り、流民のうち趙廞討伐に加わった者を挙げて恩賞を加えるよう命じたが、辛冉は朝命を握りつぶして実情を上申せず、人々は恨んだ。
- 羅尚は七月を期限として流民の出発を督促した。梁州・益州に散在していた流民は州郡の強制に愁い怨み、なす術を知らなかった。
- 李特は再び閻式を遣って冬までの猶予を求めたが、辛冉と李苾は認めなかった。羅尚が挙げた秀才の杜弢と別駕の閻式は、強制移住の利害を説き、杜弢も流民に一年の猶予を与えたいと考えたが、羅尚は容れなかった。
- 辛冉・李苾は羅尚と謀り、流民を殺してその財貨を奪おうとした。羅尚は梓潼太守の張演に命じ、要所に関を設けて宝貨を捜索させた。
- 李特が流民の滞留をたびたび請願したため、流民はこぞって李特に帰した。李特はさらに計略で彼らを怒らせ、旬月のうちに帰属者は二万人となり、李流も数千人を集めた。
- 李特がまた閻式を遣ると、羅尚は「流民に伝えよ、猶予を認める」と言った。しかし綿竹に戻った閻式は、羅尚の言は信用できないと述べ、十分な備えをするよう勧め、李特はこれに従った。
- 廣漢太守の辛冉と犍為太守の李苾が李特の陣営を襲ったが落とせなかった。李特は廣漢で辛冉を攻め、辛冉は敗れて江陽へ逃げた。李特は廣漢を占拠し、そのまま成都の羅尚を攻めた。
- 羅尚はしきりに李特に敗れたため、郫水沿いに七百里にわたる長大な陣営を連ねて李特と対峙した。
太安元年(302年)
- 張徵が廣漢太守に任じられ徳陽に駐屯した。李特は張徵を攻めて徳陽を奪い、将の騫碩を守りに置いた。
- 李驤と李流が成都へ進攻した。
太安二年(303年)
- 詔により荆州刺史の宋岱と建平太守の孫阜が水軍三万を率いて羅尚を救援した。孫阜が徳陽に迫ると、李特は任臧を派して防がせた。
- 羅尚が兵を出して李特を討ち、斬って首級を洛陽に送った。
- 孫阜は徳陽を破って騫碩を捕らえ、任臧は涪陵へ退いて屯した。
- 李流が成都に至ると、羅尚は城を閉ざして守りを固めた。
- 李雄が孫阜の軍を襲って大破した。宋岱は墊江で病死し、荆州の軍は撤退した。