蜀鑑蜀、漢中の三郡を失う(蜀失漢中三郡)

蜀漢章武元年(221年)、劉封と不和になった孟達が配下四千余家を率いて魏に降り、魏の曹丕が房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城を置き、孟達に西南方面を委ねた一件。劉曄は孟達が利を追う術策の徒であり新城は蜀呉と接するため後の患いになると警告した。孟達は夏侯尚らとともに劉封を攻め、申耽も背いて魏に降り、敗走して成都に帰った劉封は諸葛亮の勧めにより死を賜った。

年表(1件)

蜀漢章武元年(221年)

  • 孟達が上庸を挙げて魏に降った。
  • 将軍の孟達は上庸に駐屯していたが劉封と折り合いが悪く、劉封から圧迫されたため、配下四千余家を率いて魏に降った。
  • 魏主の曹丕は房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城とし、孟達を新城太守として西南方面の任を委ねた。
  • 行軍長史の劉曄は、孟達には目先の利を得ようとする心があり、才を恃んで術策を好む、新城は劉氏・孫氏の勢力と隣接しているので、変事があれば国の患いになると述べた。
  • 孟達は夏侯尚らとともに劉封を襲い、上庸太守の申耽も劉封に背いて魏に降った。劉封は敗れて成都に逃げ帰った。丞相の諸葛亮が処分を勧めたため、劉封は死を賜った。
  • 孟達はのちに城に入り白塞に登って、「劉封と申耽は金城千里の地に拠りながらこれを失ったのか」と嘆じた。