蜀鑑昭烈、荊州を攻めて利あらず(昭烈攻荆州不利)
章武元年(221年)、昭烈帝が関羽の仇と荊州奪回のため自ら大軍を率いて呉を攻めた戦役。出陣早々に張飛が配下の張達・范疆に殺され、黄権の諫言も容れられぬまま長江南岸を山伝いに進んで夷道の猇亭に布陣した。陸遜は蜀軍の疲弊を待って火攻めをかけ、四十余の営を破って張南・馮習らを斬り、昭烈帝は白帝城へ逃れ、黄権は魏に降った。章武四年(224年)、昭烈帝は永安で崩じた。
章武元年(221年)
- 昭烈帝が自ら諸軍を率いて孫権を攻めた。張飛は閬中から江州で合流することになっていたが、その配下の張達・范疆が張飛を殺して孫権のもとへ逃げた。
章武三年(223年)
- 昭烈帝が秭歸に至り、黄権に江北の諸軍を監督させ、自らは夷道の猇亭に陣を敷いた。
- 昭烈帝が秭歸から呉へ進撃しようとしたとき、黄権が諫めた。呉人は戦いに強く、水軍は流れに沿って進むので、進むのは易しいが退くのは難しい。自分が先鋒となって敵に当たりたい、と。昭烈帝は聞き入れず、黄権を鎮北将軍とし、自ら諸将を率いて長江の南岸を山伝いに嶺を越えて進み、夷道の猇亭に布陣した。
- 呉の諸将はみな迎え撃とうとしたが、陸遜は、蜀軍は山伝いに進んでいて勢いを展開できず、木や石の間で自然に疲弊するから、じっくりその疲れに乗じればよい、と述べた。
- 漢(蜀)側は佷山から武陵に通じ、馬良を遣わして五溪の諸蛮夷に金銀を与え官爵を授けた。
猇亭の敗戦
- 昭烈帝が猇亭で大敗した。
- 漢軍は巫峡・建平から夷陵の境まで営を連ね、数十の屯を置いた。馮習を大督、張南を前部督とした。正月から呉軍と対峙して六月まで決着がつかなかった。
- 陸遜は孫権に上疏し、夷陵は要害であり国の関門で、得やすいが失いやすい、失えば一郡の地を損なうだけでなく荊州全体が危うくなる、今、敵は船を捨てて陸行し、あちこちに営を結んでいるが、その配置を見るかぎり他の変化はない、と述べた。
- 呉の諸将が先に一つの営を攻めて失敗すると、陸遜は「破る手立てはすでに分かった」と言い、各兵に茅の束を一把ずつ持たせ、火攻めで抜かせた。そして全軍で同時に攻めかかり、張南・馮習らを斬って四十余の営を破った。
- 昭烈帝は馬鞍山に登って兵を自分の周囲に配したが、陸遜が諸軍を督励して四方から圧迫し、死者は万を数えた。昭烈帝は夜陰に紛れて逃げ、駅の人夫が担いだ鐃や鎧を焼いて追撃を断ち、かろうじて白帝城に入った。傅彤は殿軍を務めて戦死し、馬良も五溪で死んだ。江北にいた黄権はその軍勢を率いて魏に降った。
史論(論曰)
関雲長は万人の敵として荊州を守り、昭烈帝の君臣は彼を長城と頼んだが、呂蒙の詭計に落ちた。昭烈帝は一戦の決断に勇んで荊州を争い、君臣ともにこれを失った。ある人は、この役で昭烈帝が自ら出陣せず孔明が悠然と荊州を取りに下ればどうだったかと問う。だがそれは孔明の志ではない。孔明はもともと孫権は援助の相手にできても図る相手ではないとし、国賊は曹操であって孫権ではないとし、法孝直が生きていればこの出兵を諫止できただろうとも述べた。孔明もこの件を難しいと考えていたのである。では荊州は度外視してよかったのかと問えば、そうではない。もし雲長が江陵から襄陽へ出て、さらに黄権のような一人を留守の備えに得ていたなら、中原を震撼させつつ後顧の憂いもなかったはずだ。雲長が死んでしまった以上、孔明にもどうしようもなかった。
章武四年(224年)
- 巴西太守の閻芝が馬忠に五千の兵をつけて永安へ遣わした。
- 諸葛亮が永安に至り、昭烈帝は永安で崩じた。