蜀鑑孫権、荊州を襲う(孫權襲荆州)

建安二十四年(219年)、関羽が樊城を攻めて于禁を降し龐徳を斬り、その威勢が中原を震わせ、曹操が遷都を議するに至った戦いから、背後を突かれて滅びるまでの一年の出来事。陸遜の低姿勢に油断した関羽が兵を樊へ回した隙に、呂蒙が尋陽から進んで江陵を奪い、麋芳・傅士仁が降って退路が絶たれた。関羽は麦城に拠ったのち章郷で子の関平とともに捕らえられて殺され、孫権が荊州を平定した。

年表(1件)

建安二十四年(219年)

  • 関公(関羽)が江陵から樊を攻め、于禁と龐徳を漢水のほとりで大破した。
  • 関公は糜芳に江陵を、傅士仁に公安を守らせ、自ら兵を率いて樊の曹仁を攻めた。曹仁は于禁・龐徳らを樊の北に駐屯させたが、八月の長雨で漢水があふれ、平地でも水深数丈となり、于禁ら七軍はすべて水没した。于禁らが高所に登って水を避けたところ、関公は大船で攻め寄せ、于禁は降伏し、龐徳は斬られた。
  • 関公が樊城を包囲した。
  • 関公が樊城を激しく攻め、城は水を受けて次々と崩れ、人々は動揺した。満寵は曹仁に、ここで逃げれば洪河以南は国家のものでなくなると説き、白馬を殺して盟い、心を一つにして守り抜いた。関公は船で城に迫り幾重にも包囲して内外を断ち切り、さらに別将を送って襄陽の呂常を包囲させた。荊州刺史の胡修と南陽太守の傅方はいずれも関公に降った。関公の威勢は中原を震わせ、曹操はその鋭鋒を避けるため遷都を議論した。
  • 呂蒙が江陵を襲って奪い、関公は退却して章郷で殺された。孫権はこうして荊州を平定した。
  • 呂蒙は陸口に駐屯していたころ、孫権に蜀を取って長江全域を押さえるよう勧めていた。やがて呂蒙は重病と称し、孫権は檄を出して蕪湖に呼び寄せ、ひそかに計略を練った。代わって陸遜を陸口に置くと、陸遜はへりくだった態度で忠誠を尽くす旨を示したので、関公はすっかり安心し、兵を少しずつ樊へ回した。
  • 関公は于禁らの人馬数万を捕らえたが糧食が尽き、孫権の湘関の米を無断で奪った。孫権はこれを聞いて兵を発し、呂蒙を大都督として関公を襲わせ、あわせて曹操に上表して蜀討伐を申し出て手柄を立てようとした。
  • 関公はこれを聞いて迷い、動けずにいた。折しも傅方・胡修がともに死んだため、関公はついに樊城の囲みを解いた。呂蒙が尋陽に至ると、関公が置いた江陵の守将の麋芳、公安の守将の傅士仁がいずれも降伏した。呂蒙は江陵に入ってその将兵を慰撫し、府庫を封じて孫権の到着を待った。
  • 関公は南郡が落ちたと聞くとただちに南へ引き返した。孫権が江陵に至ると、荊州の将吏はことごとく帰服したが、治中従事の潘濬だけは病と称して会おうとしなかった。孫権が輿で迎え寄せたうえで武陵を平定させると、潘濬は従事の樊佃を斬った。孫権は陸遜に宜都太守を兼ねさせた。
  • 関公は西の麦城に立てこもった。孫権は朱然に命じてその退路を断たせ、章郷で関公とその子の関平を捕らえて殺した。こうして荊州は平定された。