蜀鑑昭烈、漢中を取る(昭烈取漢中)
建安二十一年(216年)の張飛による宕渠の勝利から、法正の献策を容れた昭烈帝が漢中攻略に踏み切り、建安二十四年(219年)に定軍山で夏侯淵を斬るまでの四年間。下辨・固山では呉蘭が敗死し、陽平関でも徐晃・張郃に阻まれて苦戦したが、黄忠の奇襲で戦局が転じ、趙雲が漢水で曹操軍を破って曹操は長安へ引き揚げた。昭烈帝は孟達・劉封に房陵・上庸を取らせ、沔陽で漢中王の位に即いた。
年表(4件)
- 建安二十一年216年張飛が宕渠で張郃を大破し、三巴の住民移送を阻む
- 建安二十二年217年法正の献策により昭烈帝が漢中へ進軍し、下辨に張飛らを置く
- 建安二十三年218年呉蘭が固山で敗死し、昭烈帝は陽平関で夏侯淵らと対峙する
- 建安二十四年219年定軍山で夏侯淵を斬り、漢中を得て沔陽で漢中王に即く
建安二十一年(216年)
- 張飛が宕渠で張郃の軍を大破した。
- 曹操は漢中を平定したのち夏侯淵と張郃に守らせていた。黄権は昭烈帝に、漢中を失えば三巴も持ちこたえられず、それは蜀の手足を切り取られるに等しいと進言した。
- 曹操は張郃に諸軍を率いて三巴を巡回させ、住民を漢中へ移そうとして宕渠まで進軍させた。巴西太守の張飛は五十余日にわたって張郃と対峙したのち、不意を襲って大破した。張郃は南鄭へ逃げ戻った。
建安二十二年(217年)
- 昭烈帝が諸将を率いて漢中へ進軍し、張飛・馬超・呉蘭らを下辨に駐屯させた。曹洪がこれを防いだ。
- 法正は昭烈帝に説いた。曹操は一挙に張魯を降して漢中を平定しながら、その勢いで巴蜀を図らなかった。内に憂いがあったからにほかならない。今、大軍で漢中を取れば必ず勝てる。取ったあかつきには農を広げ穀を蓄え、相手の隙を窺えば、上策としては敵を覆滅でき、中策としては領土を広げられ、下策でも要害を固守できる。この機を逃してはならない、と。昭烈帝はこれに従った。
建安二十三年(218年)
- 魏の曹洪と呉蘭が固山で戦い、呉蘭は敗れて死んだ。
- 曹洪が呉蘭を撃とうとしたとき、張飛が固山に陣取って軍の後方を断つと宣言したため、諸将は迷った。曹休は、本当に道を断つ気なら伏兵を潜ませるはずで、先に声高に宣伝している以上その力はない、敵が集結しないうちに呉蘭を急襲すべきだ、呉蘭が破れれば張飛は自然に退く、と述べた。曹洪はこれに従って進撃し、呉蘭を破って殺した。張飛と馬超は退いた。
- 昭烈帝が陽平関に駐屯した。
- 夏侯淵・張郃・徐晃らがこれと対峙した。昭烈帝は陳式らを遣わして馬鳴閣道を断とうとしたが、徐晃に撃ち破られた。張郃が広石に陣取り、昭烈帝は攻めたが抜けなかった。
- 昭烈帝が急使を出して益州の兵を動員しようとしたとき、諸葛亮が楊洪に意見を求めた。楊洪は、漢中は益州の咽喉であり存亡の分かれ目で、漢中がなければ蜀もない、これは家門の禍いだ、男は戦い女は輸送に当たるべきで、出兵をためらう理由はない、と答えた。
建安二十四年(219年)
- 昭烈帝が陽平から夏侯淵を定軍山で破り、その首を斬った。
- 昭烈帝は夏侯淵と一年以上対峙したのち、陽平から南に沔水を渡り、山沿いに少しずつ前進して定軍山・興勢に陣を敷いた。夏侯淵が兵を出して陣地を争ったとき、法正が「今こそ撃つべきだ」と言い、黄忠に高所から鬨の声をあげさせて攻めさせ、夏侯淵と趙顒を斬った。
- 張郃は軍を率いて陽平に退いた。翌日、昭烈帝は漢水を渡って張郃を攻めようとした。魏の諸将は兵力で劣るとして水際に陣を敷いて防ごうとしたが、郭淮は張郃に、水から離れて陣を敷き敵を誘い込み、半ば渡ったところを撃つべきだと説いた。陣が整うと昭烈帝は疑って渡らず、郭淮はそのまま守りを固めた。
- 三月、曹操が長安から斜谷を出て漢中に至ったが、趙雲がその軍を漢水で破った。
- 曹操は長安から斜谷を出て遮要に軍を置き漢中に臨んだ。昭烈帝は「曹操が来ても何もできまい。漢川は必ず自分のものになる」と言い、兵をまとめて険阻に拠り、ついに正面から戦わなかった。
- 曹操が北山のふもとに米を運んだので、黄忠が兵を率いて奪いに行ったが期限を過ぎても戻らなかった。趙雲が数十騎で営を出て様子を見に行ったところ、曹操の大軍と鉢合わせした。趙雲は敵陣に突入し、戦いながら退いた。魏軍は散ってはまた集まり、営の下まで追ってきた。趙雲は営に入るとかえって門を大きく開き、旗を伏せ太鼓を止めた。魏軍は伏兵を疑って引き返し、そこへ趙雲が太鼓を打ち鳴らし、強弩で背後から射かけた。魏兵は驚いて漢水に落ち、多くが死んだ。翌朝、昭烈帝は自ら趙雲の営に来て前日の戦場を見、「子龍は全身これ胆だ」と言った。
- 夏五月、曹操は漢中の諸軍とともに長安へ引き揚げた。
- 曹操はのちに人に、南鄭はまるで天然の牢獄で、斜谷道は五百里の石の穴のようなものだと語った。
- 昭烈帝は孟達を遣わし、秭歸から北へ房陵を攻めて落とさせ、劉封を沔水沿いに下らせて孟達と合流させ、上庸を攻めさせた。太守の申耽は郡を挙げて降伏した。
- 申耽を上庸太守、その弟の申儀を西城太守として、漢中の地を平定した。
- 秋七月、昭烈帝は沔陽で漢中王の位に即き、魏延に漢中太守を兼ねさせた。