蜀鑑呉と蜀、荊州を分かつ(吳蜀分荆州)
建安二十年(215年)、孫権が諸葛瑾を遣わして荊州諸郡の返還を求め、昭烈帝が涼州平定を口実に拒んだことから、呂蒙が二万の兵で長沙・桂陽を奪い、零陵太守の郝普も謀略によって降った一件を扱う。昭烈帝は公安に出て関羽を益陽に遣わし、呉は魯粛を配して対峙したが、曹操の漢中侵攻を聞いた昭烈帝が和を求め、湘水を境に荊州を二分して決着した。
年表(1件)
- 建安二十年215年呂蒙が長沙・桂陽・零陵を取り、湘水を境に荊州を呉蜀で分ける
建安二十年(215年)
- 関羽が江陵に駐屯していたころ、呉の孫権が諸葛瑾を遣わして荊州の諸郡の返還を求めたが、昭烈帝は許さなかった。呂蒙が長沙・桂陽など三郡を取り、零陵太守の郝普だけは城を固く守った。
- 孫権が諸葛瑾に荊州諸郡を求めさせたとき、昭烈帝は「今まさに涼州を取ろうとしている。涼州が定まったら荊州はすべて渡す」と答えた。孫権は「借りたまま返さず、口先で年月を引き延ばすつもりだ」と言い、長沙・零陵・桂陽三郡に自前の長吏を置いた。関羽がこれをことごとく追い払ったので、孫権は呂蒙に二万の兵を与えて三郡を取らせた。長沙・桂陽は風になびくように帰服し、零陵太守の郝普だけが城を守って降らなかった。
- 昭烈帝は公安まで出て関羽を益陽に遣わし三郡を争わせた。呉の孫権は陸口に進駐し、魯粛が益陽に布陣して関羽を防いだ。郝普は零陵を明け渡して呂蒙に降った。
- 孫権は呂蒙に書を送り、零陵を捨てて急ぎ戻り魯粛を助けよと命じた。呂蒙は書を伏せたまま、夜のうちに諸将を集めて手はずを授け、翌朝零陵を攻めることにした。そして使者を郝普のもとへ送り、昭烈帝は漢中に、関羽は南郡にいて頼れる援軍はないと告げさせた。郝普は恐れて降伏し、呂蒙はその日のうちに軍を益陽へ向けた。
- 昭烈帝は呉に和を求め、荊州を湘水を境に分けた。長沙・江夏・桂陽から東は呉に属し、南郡・零陵・武陵から西は漢に属することとなった。
- 昭烈帝は曹操が漢中を攻めていると聞き、使者を送って孫権と誼を通じ、荊州を二分したのである。
史論(論曰)
荊州は呉を頭、蜀を尾とし、要衝を押さえる位置にある。両者の長所を合わせて中原に向かうのが最善、荊州と益州を併せ持って要害を保つのが次善である。しかし荊州を二分して呉と共有すれば、呉からは攻められるのに蜀からは守れない。公孫述が夷陵で苦しんだのがその例である。惜しいことに昭烈帝の君臣は決起が遅く、天下を三分してわずか一隅を得たにとどまった。